主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、 創世記の18章です。それではよろしくどうぞ。
◆創世記 18章12節
サラは心の中で笑って、こう言った。「年老いてしまったこの私に、何の楽しみがあるでしょう。それに主人も年寄りで。」
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
アブラハムとその妻サラはかなり高齢になっても子が生まれませんでした。高齢と言ったって現代の「高齢出産」とか、そんなのは比ではありません。この時、アブラハムは99歳、サラは89歳でした。通常の感覚ならもう子が生まれないことに悩むこともとっくにやめて「二人でゆったり老後を過ごそう」なんて考える年齢です。しかし神様はこの二人に「君たちに来年、子が生まれるよ」と告げました。
それを聞いたサラはあまりに驚いたのか、笑ってしまったんです。「あはは、そんなことあるわけないじゃないですか。私も年老いていますし、夫も年老いていますし」と。無理もありません。通常の感覚なら冗談かと思うでしょう。でも神様は大真面目に、「なんで笑うのか!私に不可能なことはないんだから来年には本当に君たちに子が生まれるんだよ!」と怒りました。サラは慌てて「いえいえ、笑ってなんていません!」と否定しましたが、神様は「いいや、君は笑ったよ!」と言いました。
そして本当に一年後に二人には息子イサクが生まれたのですが、このイサクという名は「笑う」という意味です。サラが笑ってしまったことにちなんで、神様の言いつけでこの名前がつけられたのでした。ちなみに現代でも「アイザック」などの読み方でこの名前は残っています。アイザック・ニュートンさんが有名ですよね。
神様は時として「あはは、そんなこと起こりっこないじゃん!」と笑ってしまうようなことを実現させます。みなさんにも「笑ってしまうほどありえないこと」ってありませんか?想像してみてください。とてもありえないと思えるほどの嬉しいことを。「拾った宝くじで6億円があたる」でもいいです。「ある日突然、有名な芸能人さんに愛を告白されて結婚することになる」でもいいです。「亡くなってしまったあの人が生き返る」だっていいです。イエス様は実際に生き返ったのですから。どんなに笑ってしまうようなことも、可能性はゼロではないですし、神様はそれを実現させることができる方です。その究極の証明として、イエス様を十字架につけた後に復活させたんです。
「そんなことありえないよ」と笑うのは簡単なことです。「死者が生き返るわけがない」「ヨボヨボのおばあちゃんが子を産むわけがない」「拾った宝くじで一等賞が当たるわけがない」「自分なんかにこんなことできるわけがない」・・・これらはみんな、神様の力を人間が勝手な解釈で過小評価しているのと同じことです。それと同時に神様から与えられている自分の可能性を過小評価しているのと同じことです。「ありえない」と笑うのは神様と自分への過小評価なんです。サラは90歳でイサクを産みましたし、モーセは海を割りました。「いまどき、まだそんなことを信じているのか」と笑う人もいるかもしれませんが、むしろいまどきだからこそ、いよいよこれらは信じる価値があるものです。
イエス様の復活を否定することは、神様の無限の力を否定することであり、それはそのまま自分に与えられた可能性をも否定することになるんです。神様は死んだイエス様を復活させることさえできる方なのだから、この自分だって神様からあらゆる可能性を与えられている存在なのである、と、いわば自己肯定の究極の基盤が、イエス様の復活なんです。これを信じることなしに、クリスチャンの真の自己肯定はないとさえ言えるんです。
もちろん、あらゆる90歳がみんな子を産むわけではありませんし、あらゆる人がイエス様のように復活するわけでもありません。しかし、可能性はゼロではなく、しかも神様はその可能性を実現できる方であるということは、クリスチャンの方だけでなく、ノンクリスチャンの方にも覚えておいていただければと思います。それだけで、上がりますから自己肯定感。
それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。
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