主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、 歴代誌第一の2章です。それではよろしくどうぞ。
◆歴代誌第一 2章1〜2節
イスラエルの子は次のとおりである。ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン、ダン、ヨセフ、ベニヤミン。ナフタリ、ガド、アシェル。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
新約聖書を最初から読みますと、一番はじめに「難関」として襲いかかってくるのが、マタイの福音書のアブラハムからイエス・キリストに至るまでの延々とした系図です。この系図だけで、「さぁこれから聖書を読もう!」と志した人の心が何、何百、何千、何万、もしかしたら何億と折られたのか、もはや数える術もありません。
とはいえ世の中には上には上があるものでして。「悪名高い」マタイの福音書の冒頭の系図はこれもなんやかんや言っても実は25節で終わります。しかし、今日読んだ旧約聖書、歴代誌第一の2章はなんとその倍以上の55節にもわたって、ひたすらイスラエル民族の系図が羅列してあります。しかも、マタイの系図は有名な人がズラズラと並ぶのでまだある程度聖書を読んだ人には親しみやすさもあるのですが、歴代誌のこの系図は全然まったく知らない人がこれでもかと羅列されるので、もう本気で本当に退屈です。もう、もはや聖書の中で最も退屈な章の一つと言っても過言ではないでしょう、ここは。
こんな退屈な箇所があるから聖書を読むハードルが上がってしまうんですよ神様!なんとかしてくださいよもう!!・・・と思うのですが、しかし、聖書にこれだけ「単なる系図」が羅列されているということは、聖書が、すなわち神様が、系図をものすごく大切に思っている、ということです。
キリスト教というのは、ただ単に個人の思いとか思想とかで成立するものではありません。旧約時代には「血による系図」がその信仰の正統性が担保されていたことが、これらの「退屈な系図」が強調されることで示されています。「信仰の泉源はアブラハムの血統である」ということが、旧約聖書の時代には大切な担保だったんです。我々が今生きている新約聖書の時代においては、この「血の系譜」が「信仰の系譜」に置き換わります。アブラハムからの「血の系図」によって生まれたイエス様がペテロに「鍵」をわたし、ペテロが初代教会を立ち上げ・・・と、そこから脈々と受け継がれてきた「信仰の系譜」が現代、令和時代のクリスチャンの信仰の担保となるんです。つまりもちろん、重ね重ねイエス様はアブラハムの「血の系譜」の中にある方ですから、現代のクリスチャンの信仰もまた、アブラハムからの「血の系譜」から受け継がれた「信仰の系譜」のなかにあるということです。。
しかし一方で、この章には「アブラハムの血を受けてはいるけれども、神様に従わずに滅びた人」のことも書いてあります。つまり聖書の言っていることは、「系譜に連なることは大切だけれども、それは不可欠なことであるけれども、それだけではいけない。『今』『あなた』が神様の言うことに従うか否かは、時代を超えて常に問われ続けている」ということなんだと思います。歴史と伝統に乗っかっていれば、それだけでいいということでは決してないんです。
「今」「私が」神様に従うことは確かに難しいと言えども、それほど難しくもありません。また、「系譜に連なった者」であることも、難しいと言えどもそれほど難しくもありません。しかし「系譜に連なった私」が、「今」神様に従い続けることは、10% x 10%=1%であるように、非常に難しいことです。
ついつい僕たちは「今」の信仰ばかりを追ってしまいがちですが、自分が「アブラハムからの系図に連なるものである」という意識も決して忘れてはならないことです。聖書はこういう「退屈な系図」を通して、「それを忘れるなよ」と教えてくれているんです。
聖書に時々出てくる「退屈な系譜」は、必ずしもそれを覚える必要はないと思います。でも、自分の信仰がそんな「ややこしくてひたすら長い系図」の中にあるということは忘れてはならないと思います。だって僕たちはあきらかに、その「退屈な系譜」の延長線に今、生きているのですから。聖書に記されている系図は「どこか遠い、知らない人の系図」ではなく、「あなたの系図」なんです。
それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。
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