大昔の「苦しい言い訳」にツッコみます。【聖書からよもやま話5】

今日も日刊キリスト新聞クリスチャンプレスをご覧いただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章から、皆様の役に立つこととか立たないこととかを話してみようという【聖書からよもやま話】、
今日、選ばれたのは旧約聖書、ゼカリヤ書13章です。この企画も5回目ですが、5回とも旧約聖書です。聖書って1189章のうち、929章まで旧約聖書で、新約聖書って260章しかないんです。パーセンテージにすれば約78%が旧約聖書になります。ですからランダムで章を選ぶと旧約聖書が連続するのも自然なことなんです。

◆ゼカリヤ書13章5〜6節

また彼は『私は預言者ではない。私は土地を耕す者だ。若いときに人が私を買い取った』と言う。
だれかが『あなたの両腕の間にある、この打ち傷は何か』と聞くなら彼は『私の愛人たちの家で打たれたものだ』と言う。

この章ではイスラエルの民に対して、簡単に言えば「他の神々はみんなこの国からいなくなるし、その神々を祭る聖職者は罰せられるよ」というメッセージが語られているのですが、今回引用した箇所は、「その他の神々を祭る聖職者たちはきっとこんな言い訳をするよ」という予言です。

「私は土地を耕す者だ」というのは「私は聖職者なんかじゃありません。ただの一般市民です!」と自分の職業をごまかすことを指しています。これは現代でも似たようなことがありますよね。大麻の栽培で逮捕された人が「私は麻薬業者ではありません。ただの植物愛好家です」とか。株のインサイダー取引をしてしまった人が「私は企業内部の人間ではありません。ただの純粋な株式投資家です」とか。政治家さんたちが「政治家としてではなく、一個人としての行動です」なんて言うのもよく聞きます。

面白いのは後半です。「あなたの両腕にある、この打ち傷は何か」。この質問、パッと読んでも意味がわかりませんよね。実はこの書が書かれた当時のイスラエルには、自分の身を自分で傷つけるという儀式をもった異教がありました。それで、体に不自然な傷があるのは異教徒の証拠とされたんです。そしてそれに対する言い訳が「愛人の家で打たれた傷です」。

・・・もうちょっとマシな言い訳はないのか!?

異教を信じることが当時の律法でアウトなのはもちろんですけど、愛人を持つこともアウトですからね。「これは強盗をした時についた傷だろう!?」と問い詰められて、「いえ、これは放火をした時についた傷です」と言い訳しているような感じです。・・・いえ、それダメですから。どっちもダメですから。だいたい、愛人の家で体に傷を負うって、その愛人さん大丈夫ですか。明らかにDVとかが疑われますから、早めにお別れすることをお勧めしたいです。

人間は悪事を問い詰められて追い詰められると、苦し紛れにかなり苦しい嘘もつく、ということなんでしょうね。

苦しい嘘をつかずにすむように、正直に生きようと思います。
それではまた。
主にありて。MAROでした。

 






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