【哲学名言】断片から見た世界 司教アンブロシウスの日常

アウグスティヌスの「歯がゆい思い」

司教アンブロシウスの話を聞いているうちに、青年アウグスティヌスは、彼が話していることの内容にも興味を持つようになってゆきます。

「すなわち、わたしはアンブロシウスの語ることを学ぶつもりではなく、ただどのようにかれが語るか、その話し振りを聞こうと思ったのであるが[…]わたしが喜んで聞いた言葉とともにわたしが注意しなかった言葉の内容もわたしの魂のうちに入っていた。[…]それで、わたしが心を開いて、かれがどんなに巧みに語るかを聞こうとしたとき、かれがどんなに真実を語るかということも徐々にではあるがわたしの心のなかにはいってきた……。」

しかしながら、「もっと知りたい」と思う気持ちが次第に強くなるにつれて、アウグスティヌスの中では歯がゆい思いがつのってゆくようになります。今回の記事では、その辺りの事情について見てみることにします。

あまりにも多忙なアンブロシウス

アウグスティヌスが歯がゆさを感じていた理由、それは、「司教アンブロシウスと個人的に親しく話をさせてもらう時間を取れないから」というものでした。

一般的に言って、何かを探求する場合には、その道の「先生」と話すことは何よりも実り豊かな機会であるといえます。哲学の場合でもそれは同じことであって、先生の言葉というのはいわば、宝の山のようなものです。「あの時に直接聞いておいたあの話のおかげで、その後の学びが全く違うものになった!」という経験をしたことのある人は、決して少なくないものと思われます。

特に、アウグスティヌスが取り組んでいたキリスト教の学びというのは神学的・形而上学的な部分と、実存的な部分とが非常に密接に絡み合っているので、アウグスティヌス本人も先達の必要性を痛切に感じていました。『告白』の回想の言葉から推察するに、「普通にはあまり語られないですけど、ここってどうなってるんですか?」「実は僕は今この問題に悩んでいて、意見を聞かせてほしくて……」といった質問をしてみたくなることは、無数にあったもののようです。

しかし、アウグスティヌスにとっては残念なことに、アンブロシウスは彼と個人的な時間を取って話をするには、あまりにも忙しい生活を送っていました。「先生」は民衆に向けた説教の準備をしたり、たくさんの困っている人々の用事や相談に追われていたので、アウグスティヌスとしては、これは面談してもらうのは無理そうだと諦めざるをえませんでした。ただし、この時期の彼はアンブロシウスが「ある行為」にふけっている姿を何度か目にしており、このことは彼の心に後々まで残る非常に強い印象を残したようです。記事の後半では、この点について考えてみることにします。

 

 

司教は忙しい仕事のわずかな合間に、書物を読んでいた

『告白』第六巻第三章において、アウグスティヌスは次のような言葉を残しています。

アウグスティヌスの言葉:
「しかしながら、かれが書を読んでいたとき、その眼は紙面の上を馳せ、心は意味をさぐっていたが、声も立てず、舌も動かさなかった。しばしば、わたしたちがかれのもとにいたとき[…]かれはいつもそのように黙読していて、そうしていないのを見たことは一度もなかった。[…]かれは、他人の仕事のさわがしさに煩わされない自然の精神の保養のために得たその短い時間中に、また別の仕事に呼び戻されたくないのであろう……。」

アウグスティヌスが見たのは、この時代においては珍しく「黙読」しながら書物に読みふけっている、司教アンブロシウスの姿でした。彼が『告白』にこの光景の記憶を書き残したのはおそらく、この光景を通して、真理の探求者のあるべき姿を見てとったように思われたからなのではないか。

およそ「真理の探求」なる営みを自らの務めとする人が守らなければならない、一つの掟があります。それは、彼あるいは彼女は、人がそれをどう評価するかではなく、〈真理〉そのものがどうであるかという点にこそ目を向けなければならないというものです。これはまさしく探求の根本原則とも言うべきものですが、世の中で妥協することなくこの原則を貫いて探求を続けている人の数は、実は驚くほど少ないと言えるのではないか。

人間の心の内側はその人自身にしか分からないので、自分以外の人に対して外から評価を下すのは避けた方が賢明という面があることは確かです。しかし、魂の奥深いあり方は、時に言葉や振る舞いを通して、外側に表れてこずにはおきません。わずかな仕事の合間を見つけて黙読するアンブロシウスの姿を通して青年アウグスティヌスが読みとったのは、この司教が、真理を探し求めることに自らの実存を捧げている人であるという事実にほかならなかったのではないでしょうか。

一般に、誰かに影響を与えたいという思いがあまりにも前面に出すぎてしまっている場合には、人はかえってそのことに成功することが少ないと言えるのかもしれません。人は、普通思われているよりもはるかに、他者の心の状態をよく見てとってしまうものだからです。人の生き方が本当の意味で他者に対して何らかの働きかけを行うことができるのは、その人自身の言葉や振る舞いが、評価も見返りも期待することがないほどに奥深い所から出ている場合にほかならないのではないか。アンブロシウスはおそらく、自分の読書する姿が後に本に書かれて、その後千年以上も読み継がれることになるとは思ってもいなかったことでしょう。それでも、『告白』の叙述から推察するに、その姿をそばで見ていたアウグスティヌスの心には、この時の「黙読する先生」の姿が深く心に刻まれていたものと思われます。

 

おわりに

「祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と信仰の書は語っていますが、人生において課される心の鍛錬の要点とは、ひょっとしたら、誰も見ていない所で善を行う人間になるということに尽きるのかもしれません。この辺り、常に自分自身の良心との対話が要求されてくるものと思われますが、ともあれ私たちとしては引き続き、青年アウグスティヌスの探求の道のりをたどってみることにしたいと思います。

 

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

 






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