主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧訳聖書、 民数記の24章です。それではよろしくどうぞ。
◆民数記 24章10〜11節
「私の敵に呪いをかけてもらうためにおまえを招いたのに、かえっておまえは三度までも彼らを祝福した。今、おまえは自分のところに引き下がれ。私は手厚くもてなすつもりでいたが、主がもう、そのもてなしを拒まれたのだ」
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
バラクという王が、バラムという占い師に「イスラエルの民を呪ってくれ」と頼みました。しかしバラムは「神様の言いつけ以外のことはできません」とそれを断って、神様の言いつけどおり、イスラエルを祝福しました。バラクは「なんとか神様がイスラエルを呪うように、気が変わったりしないものか」としつこく迫りましたが、もちろん神様の気が変わることはなく、バラクが何度頼んでも、バラムはイスラエルの民を祝福しました。それでついにバラクが怒って「君をもてなすつもりでいたけど、やめた」と言ったのが今日の引用の箇所です。
バラクの姿勢は「自分の思い通りになる神様なら拝むけど、自分の思い通りにならない神様なんていらない」というものです。これは実は現代人にはとても多い姿勢ではないでしょうか。願いを叶えてくれる神様ならお賽銭もあげるしお守りも買うけど、願いを叶えてくれない神様のことなんて知らないし、そんな神様は要らない。そもそもそんな神様って本当に神様なの?・・・と、「神」に対してそういう認識を持っている方はとても多く見えます。「恋愛成就」の神社に行って失恋したらもう二度とその神社には行かないとか、「学業成就」の神社に行って受験に失敗したらもう二度とその神社には行かないとか。
それはもちろん日本の神社だけの話ではありません。聖書にもそんな人がたくさん出てきます。人間は「神」を自分の思い通りに動かしたいという性質を持っているんです。バラクも、なんとかして神様を自分の思い通りに動かそうとして、それが叶わないと分かると「じゃぁそんな神様はいらない!」と怒っています。
しかし、神様が人間の思い通りになるとしたら、それは極端に言えば「お祈り」という形で人間が神様に命令していることになり、つまり人間の方が神様よりも偉い、ということになってしまいます。「神様、これお願い。あー、あとこれもやっといて」「なんでやってくれないの!ちゃんと言ったじゃないか!!」形式上だけ「お祈り」であっても、言っていることはこれと同じです。そして最後には「やっぱり神なんていないんだ」と。たとえそこまでは行かなくても「望みを叶えてくれたら○○を献げます」「叶えてくれなかったらもう信じません」というのは、神様に取引を持ちかけることであって、神様を信じ、称える姿勢ではありません。
これはノンクリスチャンの方々を批判しているのではありません。僕も含めて、クリスチャンにもそんな性質はあります。むしろ神様を信じているはずのクリスチャンがそういう姿勢になってしまうことの方が大きな問題です。クリスチャンも、そして僕も、神様に祈って、自分の望みが叶えば「ハレルヤ!」と神様を褒め称える一方で、望みが叶わないと「どうして私の祈りを聞いてくださらないのですか!」と嘆いたり怒ったりしてしまうことがあります。しかし本当に神様を信じているのなら、自分の望みが叶っても叶わなくても常に「ハレルヤ!」と神様を褒め称えなくてはいけません。
頭でそうわかってはいても実践するのはなかなか難しいものです。バラクの姿勢をみるのは鏡の自分を見ているようです。でも鏡というのは自分の姿を確認して整えるためのものです。ここにせっかく鏡があるのなら、ちゃんと自分の姿を整えて、また今日から一歩を踏み出そうと思います。
それではまた来週。
主にありて。
MAROでした。
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