主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧訳聖書、 申命記の28章です。それではよろしくどうぞ。
◆申命記 28章67節
あなたは朝には「ああ夕方であればいいのに」と言い、夕方には「ああ朝であればいいのに」と言う。あなたの心に抱くおののきと、あなたの目に見る光景のゆえである。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
ここに記されているのは、神様に従わず、罪を犯して生きる人の姿です。朝には夕方を望み、夕方には朝を望む。つまりいつでも「今ではないいつか」を求めているということです。今の幸せを味わうことができず、当然それに感謝することもできません。今の幸せを味わうことができないので、常に「いつか来る幸せ」を求めて、「今ではないいつか」ばかりを追いかける、それが罪人の姿だということです。
反対に言えば、朝には朝を喜び、夕方には夕方を喜ぶ、これが神様に従う人に与えられる祝福だということになります。つまり、常に「今ここにある」ものに幸せを味わい、「今ではないいつか」に幸せを求める必要がないということが、真に祝福された人のあり方だということです。
僕も含めて、多くの人が「昔はよかった」とか「いつかは幸せになる」とか、「今ではないいつか」の幸せを思ったり語ったりしがちです。でも、幸せというのは「今ここ」にしかないものです。神様はいつでも「今ここ」の僕たちに幸せを与えてくださっています。しかし、その幸せを僕たちは自分の罪によって自分で隠してしまっているんです。「罪から離れよ」という命令は、「自分の幸せを自分で隠すのをやめなさい」と言い換えられるのではないかと思います。
とはいえ、罪から離れることは人間にとって非常に難しいことです。旧約聖書に出てくる人たちも、誰一人として完全に罪から離れることはできませんでした。でも、だからこそ、そこにイエス・キリストがみんなの罪を背負って十字架についてくださり、それによってみんなの罪が赦されました。それは自分で隠してしまった幸せを、イエス様が「ほら、ここにあるよ」と掘り出して、手渡してくださるようなことです。僕たちに今、求められている選択は、イエス様がそうして手渡してくださっている幸せを、受け取るか受け取らないか、その二択です。その手を拒んで「今ではないいつか」の幸せを追い続けるのか、その手を受けて「今ここ」の幸せを日々得続けるか。クリスチャンというのは、後者を選択したというだけの人たちであって、何も特別な人ではないんです。
それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。
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