主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧訳聖書、 列王記第一の20章です。それではよろしくどうぞ。
◆列王記第一 20章3節
「ベン・ハダドはこう言われる。『おまえの銀と金は私のもの。おまえの妻たちや子どもたちの、最も美しい者もわたしのものだ。』」
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
アハブ王が治める北イスラエル王国に、アラムの王ベン・ハダドが攻めてきて首都サマリアを包囲しました。ベン・ハダドはアハブに使者を送って、「お前の持っている金銀も、美しい妻や子どももみんなよこせ」と要求しました。
僕はこの箇所を読んで、「人間の求めるもの、特に神を知らない世間が求めるものは今でもこれだろうな」と思いました。そして「僕自身も、正直これを望んでいるな」と気付かされました。巨大な財産、美しいパートナー、どちらも正直なところ目の前にあれば「欲しい!」と僕は手を伸ばすでしょう。もし今、「なんでも欲しいものをあげよう」と言われたら、僕はとっさに「お金」と答えるかもしれません。素敵なパートナーを望むかもしれません。
でも、本当に僕に必要なものは、実はお金でも素敵なパートナーでもありません。本当に僕の幸せのために必要なものは、たぶん平安であったり愛であったり、そういうものです。それはいくらお金があっても買えるものではありません。ソロモン王は「なんでも欲しいものをあげよう」と言われた時に「知恵」と答えました。これもまた、見事な答えかと思いますし、ソロモンはそれで得た知恵によってイスラエル王国の全盛期を謳歌しました。しかし、ソロモンの晩年をみるに、それも「正解」ではなかったのかもしれない、とも思います。最終的に、ソロモンがその知恵によって得たものは財力と権力であって、平安を得ることはありませんでした。
望む物を得られる状況になったとき、何を望むのか。それが信仰や心の一つの鏡になるのだな、と、思います。だからと言って、このシーンでベン・ハダドが「私に心の平安をよこせ!」なんて言ったら違和感ありありですけれども。それを望むなら最初から攻め込んできて包囲なんてするんじゃないよ!という話ですからね。たぶん、誰かから奪える何かを望むことは、本当の幸せに至る道ではないように思います。他者から奪うことなしに、神様の恵みとして与えてもらえるものの中に、真に人間が望むべきものがあるように思います。
お金や素敵なパートナーや知恵は、幸せを得るツールにはなるかもしれませんが、幸せそのものではありません。自分の真に求める幸せの形というものを、考えておかなければいけません。
それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。
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