主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、 申命記の4章です。それではよろしくどうぞ。
◆申命記 4章19節
また、天に目を上げて、太陽、月、星など天の万象を見るとき、惑わされてそれらを拝み、それらに仕えることのないようにしなさい。それらのものは、あなたの神、主が天下のあらゆる民に分け与えられたものである。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
晴天の太陽や、夜空に輝く月星をみると、ありがたい気持ちとか、神秘的な気持ちになったりするものです。でも聖書では、それに惑わされないようにしなさいと書いてあります。それらはあまりに美しいので、つい僕たちはそれに願いを叶える神秘的な力があるだとか、それ自体を崇拝の対象にしなくてはならないだとか、そんな風に思えたりしてしまうのですが、そんな力や権威は、太陽にも月にも星にもないのだと聖書は語っています。それらはあくまで神様がつくったものですから、力や権威があるのはそれらではなく神様なんです。
ですからクリスチャンはたとえば星占いを信じることはありません。朝の情報番組か何かで「◯◯座のあなた!今日の運勢は最悪です!」とかショッキングなことを言われても心を動かすことはありません。・・・と、言いたいところですが、いや正直なところ、ちょっとは気になってしまったりするので、できるだけ見ないようにしたりします。それに信憑性はないと分かってはいても、聞いたらやっぱり気になってしまうのが人間です。
「星に願いを」なんて、とても美しく純情なフレーズですけれど、そんなわけでクリスチャンは星に願いをかけることはありません。願うのはあくまで神様に対してだけです。
しかし太陽や月や星をみて、そこに何らかのパワーを感じることは、無理もないことのように思います。それほど美しいものですから。それで聖書もわざわざこのように「そこにパワーはないんだよ」と教えてくれているのだと思います。そして、それらをみて美しいと思うことは悪いことではありません。だってここにも、それらは「天下のあらゆる民に分け与えられたもの」だと書いてありますから。太陽も月も星も、人間のために神様が用意してくださったプレゼントです。ですからそれを眺めて愛でることは悪いことではありません。天体観測も、お月見も悪いことではありません。でも、プレゼントの本質はプレゼントそのものにではなく、それをくれた人の心にあります。プレゼントを喜ぶあまりに、プレゼントばかりを大切にして、それをくれた人を無視するようなことは、人間同士だってよくないことですよね。「プレゼントは好きだけど、それをくれたあなたのことはどうでもいい」なんて、悲しすぎますものね。
夜空を見上げて、月や星の美しさを鑑賞し、それをすべて作った神様の力強さ、壮大さ、センスの良さ・・・etc.に思いを馳せるのは楽しく、満たされた時間です。
でも近頃、隣に高いマンションが建って、我が家のベランダから月を眺めることができなくなったのが少し悲しいです。
それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。
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