親の罪を子が負うべきか。【聖書からよもやま話122】

主の御名をあがめます。

今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。MAROです。

新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は  旧約聖書、列王記第二の14章です。それではよろしくどうぞ。


◆列王記第二 14章6節

父が子のゆえに殺されてはならない。子が父のゆえに殺されてはならない。人が殺されるのは、ただ自分の罪過のゆえでなければならない。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)


「あいつは犯罪者の息子だ」とか「あんなひどい奴の親なんて、きっとひどいやつにちがいない」とか、社会には親ゆえに子が責められたり、子ゆえに親が責められたりすることが多々あります。しかし聖書は、人の良し悪しはその人自身の問題であって、親とか子とかは関係ないと言っています。

親の罪を子が負う必要はありませんし、(少なくとも成人しているのであれば)子の罪を親が負う必要もありません。「親が悪人なら子も悪人だ!」というのは明らかに暴論ですし、「犯罪者を育てた親も同罪だ!」というのも暴論です。

しかし世の中には親どころか親の親とか親の親のそのまた親とか、そこまでさかのぼって「あいつらは悪い奴だ」と憎しみあうようなシチュエーションが少なくありません。とても悲しいことです。「先祖代々忘れない恨み」のようなものが、たくさんあります。

人間ですから、それを持ってしまうのも仕方ないのかもしれません。むしろだからこそ、聖書にこのように「子が父のゆえに殺されてはならない」と書いてあるのでしょう。なんでかは知りませんけど人は往々にして「親が憎れけば子まで憎い」と、「憎しみの対象の継承」をしてしまいます。昔の人も同じだったのだと思います。

憎しみを受けた側と与えた側で、心情も立場も違いますから、これは場合によってはとても難しい問題だと思います。法の世界では、「親の罰を子が受ける」ということはありえず、法によって罰を受けるのはあくまで罪を犯した本人だけ、ということになります。しかし法が心の問題にとことんまで対処できるのかといえば、決してそういうわけではありません。とはいえだからこそ、法は心から独立して毅然と立っていなければならないわけで・・・と、堂々巡りの難しい問題です、本当に。でも聖書には明らかに「親の罪で子を裁くな」と書いてあるわけです。

僕の父はいわゆる「アクの強い人」だったので、僕も些細なことながら「お前はあいつの息子か」と、嫌な思いをさせられたこともありました。その度に「僕は何もしてないのにな」と思わされたものでした。反対に「あなたのお父さんを尊敬しているのだ」と、よくしてもらったこともあるのですけれどね。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。


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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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