主の御名をあがめます。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。MAROです。
新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、列王記第二の14章です。それではよろしくどうぞ。
◆列王記第二 14章6節
父が子のゆえに殺されてはならない。子が父のゆえに殺されてはならない。人が殺されるのは、ただ自分の罪過のゆえでなければならない。(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
「あいつは犯罪者の息子だ」とか「あんなひどい奴の親なんて、きっとひどいやつにちがいない」とか、社会には親ゆえに子が責められたり、子ゆえに親が責められたりすることが多々あります。しかし聖書は、人の良し悪しはその人自身の問題であって、親とか子とかは関係ないと言っています。
親の罪を子が負う必要はありませんし、(少なくとも成人しているのであれば)子の罪を親が負う必要もありません。「親が悪人なら子も悪人だ!」というのは明らかに暴論ですし、「犯罪者を育てた親も同罪だ!」というのも暴論です。
しかし世の中には親どころか親の親とか親の親のそのまた親とか、そこまでさかのぼって「あいつらは悪い奴だ」と憎しみあうようなシチュエーションが少なくありません。とても悲しいことです。「先祖代々忘れない恨み」のようなものが、たくさんあります。
人間ですから、それを持ってしまうのも仕方ないのかもしれません。むしろだからこそ、聖書にこのように「子が父のゆえに殺されてはならない」と書いてあるのでしょう。なんでかは知りませんけど人は往々にして「親が憎れけば子まで憎い」と、「憎しみの対象の継承」をしてしまいます。昔の人も同じだったのだと思います。
憎しみを受けた側と与えた側で、心情も立場も違いますから、これは場合によってはとても難しい問題だと思います。法の世界では、「親の罰を子が受ける」ということはありえず、法によって罰を受けるのはあくまで罪を犯した本人だけ、ということになります。しかし法が心の問題にとことんまで対処できるのかといえば、決してそういうわけではありません。とはいえだからこそ、法は心から独立して毅然と立っていなければならないわけで・・・と、堂々巡りの難しい問題です、本当に。でも聖書には明らかに「親の罪で子を裁くな」と書いてあるわけです。
僕の父はいわゆる「アクの強い人」だったので、僕も些細なことながら「お前はあいつの息子か」と、嫌な思いをさせられたこともありました。その度に「僕は何もしてないのにな」と思わされたものでした。反対に「あなたのお父さんを尊敬しているのだ」と、よくしてもらったこともあるのですけれどね。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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