【連載小説】月の都(39)下田ひとみ

 

城島は頷(うなず)きながら聞いていたが、コーヒーを飲み干した後、遠慮がちに尋ねてきた。

「名倉先生が家出をされたご事情、伺わせていただいてもよろしいですか」

「父が再婚したんです。それで気まずくなってしまって……」

ここまで言って、謙作は覚悟を決めた。なぜだか説明のつかない感情にかられ、城島に全部話してしまおうと、突然決心したのである。

「この話は、誰にも……妻にも言っていません。母のことです。母は、ぼくが小学生の時、亡くなりました。電車に飛び込んで。自殺でした。心の病気を患っていたのですが、みんなには胸の病で亡くなったと言ってあります。妻も、結核か何かだったと思っているようです。ぼくは……ずっと考えていました。間に合っていたら、電車に飛び込む前に、もし母を引き止めることができていたら、母は死ななかったんじゃないかって。タイムマシンがあったら、あの時に帰るのに。母にしがみついて、『死なないで!』って叫ぶのに。ずっと、ずっと、その考えが頭から離れなくて……。だから、藤崎先生が心の病だと聞いた時、『絶対受け入れよう』って決意したんです。母のようにはさせない、今度こそって……。でも、駄目でした。藤崎先生も……死んでしまった……ぼくは」

謙作は放心したようにふいに口を噤(つぐ)んだ。

一心に聴いていた城島が励ますように言った。

「名倉先生は立派に努められました。先生に責任はない。先生が苦しまれることはありません。あれは、仕方のないことだったんです」

「違うんです。ぼくが……何を感じたと思いますか。藤崎先生が亡くなったと聞いて。病院の窓から飛び降りたと知った時……。藤崎先生は、いったんは助かったんです。ぼくが発見して、救急車を呼んだ。先生は命をとりとめた。それなのに、先生はまた命を絶とうとした。それを実行してしまった。ぼくは……むなしくて……むなしくて……。心が津波にさらわれてしまった後のように……空っぽになってしまって……。祈ることも、できなかった……。でも、ある瞬間、ふと閃(ひらめ)いたんです。母も……そうだったかもしれない。あの日、もし間に合っても、タイムマシンに乗って、ぼくがあの踏み切りに戻って、一生懸命母を引き止めても、母は、藤崎先生と同じように、また命を絶とうとする。そうかもしれない。それがわかって、ぼくは……ぼくは……」

謙作の眼から涙がこぼれ落ちた。

「ホッとしたんです」

謙作の鳴咽(おえつ)が明るい部屋に響いた。

「ぼくは……最低です。最低で、本当に、駄目な人間です。こんなぼくが、牧師だなんて……。明確な召命感もないのに、牧師になってしまって……。このたびのことだって、皆さんに引き止められたことをいいことに、教会を辞めなかったのも、生活のことを考えてしまって……。子供が生まれるのに、やっぱりそんなことはできないって。すみません……すみません……」(つづく)

月の都(40)

下田 ひとみ

下田 ひとみ

1955年、鳥取県生まれ。75年、京都池ノ坊短期大学国文科卒。単立・逗子キリスト教会会員。著書に『うりずんの風』(第4回小島信夫文学賞候補)『翼を持つ者』『トロアスの港』(作品社)、『落葉シティ』『キャロリングの夜のことなど』(由木菖名義、文芸社)など。

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