癌(がん)と聞いて、クリスチャンとして生きることを放棄しようと紘子(ひろこ)は決心した。残された日々を夫とひとつ心で過ごすのだ。夫と出会ったあの頃のように──。
口に出しては言わなかったが、数蒔(かずま)はそのことを感じ取っていたはずである。
彼は一度だけ尋ねた。
「教会は?」
紘子はさりげなく答えた。
「もう行かないの」
数蒔にはわかったはずである。ふたたび夫と同じ道を歩むことを選んだ妻の心を──。
神はいない。
そう信じることができたら、どんなに楽になるだろう。少なくとも、夫はそう信じているのだ。だから私ももう一度、この道を歩いてみよう。
歩き続けていれば、いつかはこの道に慣れるかもしれない。ほかに道があったことを忘れられるかもしれない。もしかしたら、それこそが私にとっての救いとなるかもしれない。歩き続けていれば、私の知らないどこかへ辿(たど)り着けるかもしれない。
いいえ、そうではない。
私は楽になることを願ってはならないのだ。すべては「ふり」なのだから。
私は何も信じない。
神がいることも、神がいないことも、信じない。
一番大切なのは、夫と私の関係なのだ。
私たちは夫婦なのだから、だから同じ道を歩む。夫が信じている道を、妻である私も。今こそ、そうするべきなのだ。
考えて、考えて、悩み抜いての末の決断であった。
それなのに数蒔は洗礼を受けたのである。
それはまったく妙であった。
紘子にはどうしても合点がいかなかった。数蒔は妻を大切にする人間であった。妻の心根を知りながら裏切るのは、彼らしくない。それも、いまわのきわになって。これではもう永遠に取り返しがつかないではないか。
このようなことを思いあぐねて、悶々(もんもん)と日々を送っているうちに、いつしか紘子の頭に、ひとつの疑問が渦巻くようになったのである。あの人は、もしかしたら、知っていたのだろうか。
あの秘密を──。
まさか……。
でも……。
恐ろしかった。
そう疑うこと自体が、あまりに紘子には恐ろしかった。
あの人は知っていたのだろうか。
だから、私を苦しめようとして……。
もしかしたら最後の最後になって、積年の望みを果たしたのだろうか。
洗礼を受けたのは、私への復讐なのだろうか。(つづく)