カト×プロ対談「 “ゆるゆる” と “どろどろ” のキリスト教~ MAROさん×清涼院流水さん」開催 

カトリック作家・清涼院流水さんの『どろどろの聖人伝』(朝日新聞出版)刊行を記念するトークイベント「 “ゆるゆる” と “どろどろ” のキリスト教~ MAROさん×清涼院流水さん」(主催:朝日新聞出版、日本聖書協会、ジュンク堂池袋店) が11月21日、ジュンク堂池袋店(東京都豊島区)とオンラインのハイブリットで開催された。カトリックとプロテスタントという宗派を超えて、中二病的な好奇心をくすぐってやまない聖書の魅力と、伝道者(エヴァンジェリスト)として気概を語り合った。ファシリテータはキリスト新聞社社長の松谷信司さん。

『どろどろの聖書』『どろどろのキリスト教』に続く「どろどろシリーズ」3作目となる『どろどろの聖人伝』。今回は、キリスト教の聖人を取り上げ、驚きのエピソードと共にその物語を紹介する内容となっている。「どろどろ」が定着してしまった清涼院さんだが、実は「きらきら」な聖書の話を書きたかったという。しかし、編集者に「聖書に出てくる話って意外とドロドロしてるんですよ」と言ったことで、「どろどろ」を冠する題名が誕生してしまった。

一方、ゆるく聖書やキリスト教を語ることで知られてる上馬キリスト教会Twitter(X)の「中の人」MAROさん。『世界一ゆるい聖書入門』を読んで以来、MAROさんをリスペクトしてきたという清涼院さんは、「どろどろ」と「ゆるゆる」の違いはあっても、実は同じようなことをやっていると話す。2人とも、聖書やキリスト教に愛ある突っ込みを入れていて、それをMAROさんは「ゆるゆる」と言い、自身は、「どろどろ」と言っているのだという。

MAROさんの著書の中で好きな言葉として「義人はいない、一人もいない」を挙げ、「つまりクリスチャンは善人ではないし、実際には罪人。神父からも教会は罪人の集まりだと言われた」ことを語った。それに対しMAROさんも「そもそも聖書に出てくる人もそう。聖人も我々と同様に苦労しているし、怒られるようなこともしている」と話す。プロテスタントには聖人の概念がなく、同書によって初めて知ったことも多かったと明かすと、清涼院さんは、「聖人伝は聖典ではないが、中世の時代は聖書と同じくらい全員が読んでた本。カトリックの人も知らない人は多く、今回、そういったことが分かる本にできたのが嬉しい」と率直に語った。

左からMAROさん、清涼院流水さん、ファシリテーターの松谷信司さん。(Zoomより撮影)

「ゆるゆる」の立場で、「どろどろ」を読むとどう感じるかと質問されると、「やっていることは一緒」とMAROさんも述べ、「どろどろという聖書のリアリティに対して、僕は逆に現実味を抜いてファンタジーにしている。今流行(はや)りの誰も傷つけない優しい感じで親しみやすくしている」と話し、その上でこう語った。「ただ、言っていることは、どろどろよりキツかったりする。流水さんは、信じ難いことは信じなくてもいいと言うが、僕は福音派なので、信じ難いことが書いてあるのだから信じてみないかとハードルをあげている。だから、他でゆるくしている」

今の時代だけでなく、聖書の時代から人は信じていないことも明かした。「イエスの復活も信じていない。それは今も昔も変わっていない。そのことを知った上で今スタートするのが大切」と述べると、清涼院さんも「みんなが信じてくれるとは思わないが、日本人はキリスト教を知らなすぎる。僕はキリスト教が大好きなので、みんなにキリスト教を知ってほしいという気持ちが強い。知った後で信じる信じないはその人の自由でいいが、興味があるのに知らないというのが今までの日本人だったので、そこを変えていきたい」と続けた。

さらに、2人の新しい発信方法が、現代ではあっているのではないかと思い、やりがいを感じていると力を込める。また、こういった本を書いたり、SNSで発信できるのはいわゆる平信徒だからであり、信徒の人生を背負っているような神父や牧師ではできないことだと話す。

2人の出版物は全て一般の出版社から刊行されていることにも注目した。キリスト教の出版社だと身内を褒めるための身内の本ばかり出してしまう傾向があるが、一般の出版社だと、ノンクリスチャンが何を知りたいのか、どう書けば面白く読んでもらえるのかを肌で感じることができるという。また、今回のイベントも一般書店であるジュンク堂で開催するから意味があるのであって、教会でやってもなんの意味がないと慣習的な伝道集会の在り方を疑問視した。

さらに、信者にすることが伝道だと考える教会にも言及した。まずは教会に行ってみたいという気持ちを起こさせることが大切で、クリスチャンが楽しんでいる姿を見たら自ずと教会に行きたくなるのではないか、清涼院さんは伝道しないことが伝道だと力を込める。一方MAROさんは、人口が半分になる2040年問題に触れ、このままだと教会も寺も信者は半分になって立ち行かなくなり、必要な時に頼れるところがなくなってしまう。宗教は社会インフラの問題でもあり、社会資源としての存在意義についてももっと考えてほしいと訴えた。

カルト問題については、社会一般よりも本流である教会内部の人たちが、自分たちとは無関係と思っていることを問題視した。保守的な教会では2世の問題もあるし、献金などについても他人事ではなく自分事と襟を正すべきだと指摘した。

最後に、本離れが進む一方で、AI化が進む中、今後伝える手段はどうなっていくかを語り合った。MAROさんは、本は無くなっても文字は無くならないと述べ、文字の伝達方法が変わるだけで、それにあったメディアで文字を書き続けるだけと語った。清涼院さんは、ChatGPT などAIを試している作家仲間もいることを明かした上で、教会のメッセージにもChatGPT が使われるようになるのではないかと話し、これを「悪魔の誘惑」と表現した。MAROさんは「面白そう」といことには同意しながらも、神さまがChatGPTに召命することはないと考えていることを伝えた。また、コロナ禍以降、プロテスタント・カトリック共に導入が進んだオンライン礼拝(ミサ)は、キリスト教を広めるのに適しているとし、まずはオンラインで礼拝を検索して覗いてから、実際に聖書を読んだり、教会に行くことを提案した。

MAROさんは、大学で哲学を専攻していたが、聖書を読んで、わからなかった西洋哲学がすんなり理解できたと言う。また、清涼院さんも海外ミステリーが聖書を知ってから面白さが断然変わったと話し、「初めて信じてみたことで理解できることはたくさんある」と述べ、聖書の世界の入り口として自身の著書やMAROさんの著書を活用してほしいと締めくくった。

 






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