10月9日「露わにされ、磨かれる」

「詩」とは強さをもった言語である。「詩」とは多くの人が考えるような「飾り立てたスピーチ」ではない。ぼんやりした目が霞(かす)み見落とすことがある。騒々しいおしゃべりで耳が聞き逃すことがある。わたしたちの周りや内部にあるものを見落とし聞き逃すことが沢山ある。そうしたものがあることを「詩」はわたしたちに語り、教えてくれる。言葉を使って、「詩」はありのままの現実の深みにわたしたちを引き込む。「詩」は、人生についての報告書ではない。「詩」は、わたしたちを押したり引いたりしながら、人生の只中に連れて行く。「詩」は実存の核心に響くのだ。「うわべの言葉」を遥かに超えて、「詩」は腑に落ちる言葉「根源の言葉」である。わたしたちが一度も経験したことがないようなことを、「詩」は余り語らない。むしろ「詩」は、隠れていること、忘れていること、看過していることに気づかせる。詩編は、おおむね、このような「詩」の言葉で出来ている。それが分かると、「神の理念について」とか「道徳的な行動指針」をまず第一に詩編の中に探すことがなくなるだろう。むしろ「人間が神の御前でどのような意味をもっているか」について、はっきりと詩編から見つけ出すようになる。

「祈り」とは神との交わりで用いる言葉である。神の御前で感じ、望み、応答することである。それらについて語り出すこと、それが「祈り」である。神がわたしたちに語る、神への応答が「祈り」である。「祈り」は、必ずしも理路整然としていない。沈黙、嘆息(たんそく)、うめき ―― こうしたものが神への応答でもある。それでも、神は、いつも関わってくださる。わたしたちが闇にあっても、光にあっても、信じている時も、絶望している時にも、神はいつも関わってくださる。これに慣れることは難しい。それは至難の業である。わたしたちはつい「神について」話してしまう。「神に向かって」話さない癖がついている。わたしたちは神と議論することが大好きなのだ。しかし、詩編はその議論に抵抗する。詩編は神についての教えを提供するものではない。神にどう応えるかを身に着けるための鍛錬の機会を提供する。詩編をもって祈ることができなければ、詩編を学んだとは言えない。

わたしは、あなたを呼び求める。
神よ。あなたは答えてくださるはずだから
そうだ ―― 答え給え! 耳を傾け給え!
さやかに聴き給え!
恵みの落書きを塀に書いてください。
受け入れ給え、
恐れおののく子どもらを
ともだちにいじめられているあの子たちを、
あなたの所へ まっすぐに
―― 詩編17編6~7節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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