【あっちゃん牧師のおいしい話】第3回 神様の食事 齋藤篤

皆さんこんにちは!

「おいしい話」3食(回)目のお届けです。しばしお付き合いのほど、よろしくお願いします。

先日、同業の友人から嬉しい誕生日プレゼントをいただきました。北海道のとある修道院でつくられているバターです。知る人ぞ知るコクと風味の豊かな逸品。どんな料理にも合うと思いますが、皆さんならば、バターを使ってどのような美味しい料理をつくられるでしょうか?

僕の場合、バターの魅力を一番楽しめるのはなんと言っても「バター醤油ごはん」とここに宣言いたします!炊き立てのご飯を茶碗によそって、湯気のたつところにバターをひとかけポトンと落とすと、溶けたバターがご飯にまぶされると同時に、バターの良い香りがふわりと鼻腔(びくう)を刺激するではありませんか。軽くご飯とバターを混ぜたところに醤油をタラリ。バターと醤油の混然一体となった魅惑的な香りを前にしては、ご飯をかっこまないはずがありません。あっという間に一杯。ああ、おかわりが欲しい。昔ならばなんのためらいもなく釜に向かっていたのが、今は糖分とか脂肪とかを意識しなければならないお年頃。そんなせめぎ合いをするくらい、バター醤油ごはんは僕のベスト・オブ・バター料理なのです!

ところで、聖書のなかでバターが登場する箇所があるのをご存知でしょうか。

乳を絞ると凝乳が出て来る。
鼻を絞ると血が出て来る。
怒りを絞ると争いが出て来る。
―箴言30章33節(聖書協会共同訳)

諸説ありますが、この「凝乳」こそがバターであると言われています。それにしても、絞るという言葉から、鼻とか怒りを絞るという発想に至るのもさすがなものです。鼻を絞って鼻血が出てしまったり、怒りを絞って争いを生じさせるなんて、なんて痛々しく不幸なことでしょう。どうせ絞るならば、人を幸せにするような絞りにあやかりたいですね。

さて、今回のテーマである「神様の食事」ですが、そもそも神様は食事をするのだろうか、というところから始めなければなりません。結論から言いますと、神様はもちろん食事すると言ってよいと僕は考えています。実際に、神様が食事をするシーンなどは登場しないわけですが、僕たちは神の似姿として創造されているわけですから、僕たちが食べ、それを喜ぶモデルを、当然神様に求めることができると僕は思うんですよね。

神様へ供え物として食べ物をささげる場面は、聖書のあらゆるところで見つけることができます。世界の多くの宗教がそうであるように、それは神様に食事をおささげすることを意味します。聖書を読みますと、特にモーセ律法に書かれている部分がそうなのですが、神様の食事のメインディッシュは動物です。生きた動物が祭司によって解体されて、それを祭壇で燃やして出た煙を神様に手向(たむ)けます。

こうして神様に動物を召し上がっていただくわけですが、「これは神様だけに食べていただく」ものがありました。それは動物の脂身の部分、すなわち脂肪でした。脂肪は人間が食べるべきものではありませんでした。脂肪はすべて燃やされて、その煙が「宥(なだ)めの香り」として、神にささげられたのです。神をなだめる香りとは、脂肪の放つ香りがいかに魅力的なものであったかと想像してしまうのは、食いしん坊だからこそなせる業。それは、あのバター醤油ごはんに相通じるのではないかと思ってしまうのは、あまりにも乱暴・・・いや、これでいいのだ!と。脂肪の香りに誘われて幸いがあふれるという点では同じなのだからと、自分に言い聞かせて納得してしまうのでした。

余談ですが、僕がドイツに住んでいたときに「神様の食事」と名付けられた食品がありました。なんと!ゼリーが「神の食事(Götterspeise:ゲッターシュパイセ)」という商品名で売られていたのです。神様はゼリーもお好きだったとは!と、またもや無類のゼリー好きである僕は狂喜乱舞してしまったとさ。

おあとがよろしいようで。また次回お会いいたしましょう!

齋藤篤

齋藤篤

さいとう・あつし 1976年福島県生まれ。いわゆる「カルト」と呼ばれる信者生活を経て、教会に足を踏み入れる。大学卒業後、神学校で5年間学んだのち、2006年より日本キリスト教団の教職として、静岡・ドイツの教会での牧師生活を送る。2015年より深沢教会(東京都世田谷区)牧師。美味しいものを食べること、料理することに情熱を燃やし、妻に料理を美味しいと言ってもらい、料理の数々をSNSに投稿する日々を過ごしている。

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