「おねむのジョン」はなぜ説教ができないか

バーフィンクにとっては明らかに、こうした説教者たちの問題は言語能力の不足ではなかった。彼はむしろ、説教の弱点(おもにそれが人の心を動かさない無気力なものであること)、そして世の中における説教のあり方を批判していたのだ。

上手な説教について学生に講義する際、バーフィンクは、(当時よく知られていた)詩人ポットヒーテルの作品に出てくる「おねむのジョン」(オランダ語では「ヤン・サーリー」で「賢いジョン」の意。催眠性のある薬草のせいで怠惰で鈍い男になる)として擬人化された、典型的な19世紀オランダ人のカリカチュア(風刺)で説明した。

寓話『ヤンとヤンチェと彼らの末の子』(1841年)でポットヒーテルは、19世紀オランダ人のステレオタイプを描いた。すなわち、自分を「忍耐強く、合理的で、冷静沈着」であると見なしているのに、実際には「無関心でよそよそしい」オランダ人の姿だ。「おねむのジョン」は、巨悪を前にしても、美しいものを前にしても、何の影響も受けない。この世からどんな刺激や挑発を受けても、意に介さない。この男は世にありながら、世で起こることの一切を経験する機会を逸しているのだ。

バーフィンクは言う。「辛抱強さと中立性が売りの『おねむのジョン』タイプの説教者に、雄弁を求めても仕方がない。『おねむのジョン』は熱くも冷たくもない。情熱も、意気込みも、熱意も、霊感もない」。著書『雄弁』でバーフィンクは、「『おねむのジョン』になるなかれ」と熱心に勧めている。このこと自体が、近代オランダ人の自己像および世界の見方への激しい批判だ。

「心の中にある熱意を言葉にすれば、雄弁が生まれるだろう。それは私たちの心を打つに違いない。すべての被造物と同じように、私たちには感じる心があるのではないだろうか。私たちは一切とつながっているのではないか。私たちは天と地の両方に属する者なのではないか。心は、すべてのものが溶け合う坩堝(るつぼ)のようなもの、すべてのものが映る鏡だ。印象も、認識も、感情も、あらゆる方向から私たちに向かってくる。天使の歌や悪魔の遠吠えに、あるいは創造物の歌や被造物のため息に心動かされることもある。

私たちのうちに雄弁の源が真に解放されるのは、こんな時だ。私たちの心が動かされ、感動する時。(愛、憎しみ、悲しみ、同情、憤り、ショック、心配、不安、恐怖などの)あらゆる熱情に目覚める時。私たちの良心が触れられる時。魂の命が波打ち始める時。私たちの霊が駆り立てられ、動かされ、輝く時。

心の深いところにある感情こそ、雄弁の根本をなすものだ。感情が動くとは、魂の感受性が軋(きし)む音を立て、驚嘆するということなのだ」

人の苦しみ、創造の偉大さ、福音の力、神の栄光を目の当たりにしても、感動して、それを言葉にしたり、行動に移したりすることがない時代精神は、よい説教の対極にあるものだとバーフィンクは信じていた。彼の時代の平均的な説教者は、正しい文法で読み書きができ、古典の知識もあったが、それでも福音の説教はできなかった。なぜなら、これらの説教者たちは、他人に共感して、よく心が動いていたイエスと違い、被造物や創造主に自分の内面をかき乱されることを許そうとしなかったからだ。(次ページに続く)

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