【米クリスチャニティ・トゥデイ】説教者はポスト・キリスト教社会に影響を及ぼせるか

21世紀の説教に対する19世紀の知恵

バーフィンクによる、説教についての批判的かつ建設的な著述の多くは、今日にもある程度、適用可能なものだ。不可能なほどに高い水準を牧師に求める者が説教の鑑定家のようになってしまう危険性について、彼は警告する。毎回の食事にミシュラン並みのレベルを求めるのと同様なことを説教にもしてしまうと、「雄弁という賜物をわずかな人だけに与えるという神のご意志にケチをつけることになる」。

むしろ平均的な牧師は、説教のほかにありとあらゆる仕事を抱えていることを、聴衆はわきまえなければならない。自分の仕事のすべてに真剣に取り組む牧師は、講壇で「いつでも新鮮な最新の話題を提供できるわけではない」。

ゴードンの『ジョニーはなぜ説教ができないか』における考え方は、「現代文化の貧しい表現力が説教の力を弱めてしまった」というものだった。これと比較して、バーフィンクが19世紀の説教に欠けているものとして描くことは対照的だ。

今日の神学校教授と異なり、バーフィンクにとっては、学生が「文章を読むことができ、注意を払って文章を書くことができる」のは当然だった。19世紀のオランダでは、平均的な牧師はギムナジウムで中学・高等学校教育を受け、古典文学や語学を集中的に学んでいた。ギムナジウムでの教育課程を経ずに牧師になる者も、神学を勉強するのに先立ち、最低1年は準備過程として人文科学全般を履修しなければならなかった。

バーフィンクが書いた最も重要な文章である1901年の冊子『雄弁』(邦訳なし)は、当時の文化において人々がどれだけ言語を操る能力があったかを物語っている。この冊子には古典文学がしばしば言及され、種々の古典言語や現代語のテキストを原語のまま数多く引用してある。バーフィンクの学生にその翻訳が必要だとは想定していないのだ。神学生を説教者に育てるにあたってバーフィンクは、学生たちがプラトンやシェイクスピア、ゲーテのほか、当時のオランダの名作や詩集を当然知っているものと見なしていたのだ。

当時の説教者たちは共通して高い能力を持っていたにもかかわらず、「今の説教は時代にそぐわないものであり、時代の必要に応えていない」と、説教者たちの標準的な説教の水準にバーフィンクは批判的だった。(次ページに続く)

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