「苦しみ抜くこと」の問題:フランクルと、実存の深奥
強制収容所の体験を生き延びたV・E・フランクルが書いた『夜と霧』には、人間が「死に至る病」であるところの「絶望」と向き合ってゆくための重要な手がかりがいくつも残されています。
「苦しむことの意味が明らかになると、わたしたちは収容所生活に横溢していた苦しみを、『抑圧』したり、安手のぎこちない楽観によってごまかすことで軽視し、高をくくることを拒否した。わたしたちにとっては、苦しむことですら課題だったのであって、その意味深さにもはや目を閉じようとは思わなかった……。」
前回の記事では、「〈可能性〉への目覚め」なる契機を通してこの本について考えてみましたが、フランクルとキルケゴールの思考が重なり合う部分はまだ他にもありそうです。今回の記事では、「苦しみ抜くこと」の問題をめぐってフランクルの言葉に耳を傾けてみることにしたいと思います。
「苦しむことは、なにかをなしとげること」:人間の尊厳はどこに宿るか
上に引用した箇所は、次のように続けられています。
フランクルの言葉:
「苦しむことの意味が明らかになると、わたしたちは収容所生活に横溢していた苦しみを、『抑圧』したり、安手のぎこちない楽観によってごまかすことで軽視し、高をくくることを拒否した。わたしたちにとっては、苦しむことですら課題だったのであって、その意味深さにもはや目を閉じようとは思わなかった。わたしたちにとって、苦しむことはなにかをなしとげることという性格を帯びていた。詩人のリルケを衝き動かし、『どれだけ苦しみ尽くさねばならないのか!』と叫ばせた、あの苦しむことの性格を帯びていたのだ。リルケは、『やり尽くす』というように、『苦しみ尽くす』と言っている……。」
事態を二点に分けて整理してみます。
① フランクルは『夜と霧』において、人間が苦しむということの意味の問題を、ほとんど極限に至るまで突き詰めています。すでに見たように、彼はこの本の初稿を、人間が経験しうる最もむごたらしいものの一つであるところの、強制収容所の体験を生き残った直後に一気に書き上げています。それは、あたかも歴史そのものがこの前例のない惨禍の記録を残すために、彼という人間を「苦難の僕(しもべ)」として選んだかのようであったと言うこともできそうですが、いま引用した箇所におけるフランクルの思考は、同時代においてまた別種の苦しみであるところの「言葉と向き合うことの苦しみ」を苦しみ抜いた詩人であるところの、リルケの言葉との間に同盟関係を見出しています(苦しむ人間は、その苦しみの孤絶と単独性とを苦しむことを通して、必然的に何らかの「秘密の連帯」へとたどり着かずにはおかないと言えるのかもしれない)。
② そのフランクルはこの箇所において、苦しみなるものと向き合うために必要なことを、「苦しみから逃げることなく『苦しみ尽くす』こと」として言い表しています。
自分自身のもとにやって来てしまった苦しみの存在を否認して現実逃避するのではなく、「課題」として、他の誰でもない自分自身に与えられた「使命」として引き受けること。ここには、「運命」として自分自身に手渡される盃を畏れと共に受け取ろうとする「決意」あるいは「覚悟」が表明されていると見ることもできるのではないか。人間の尊厳は、自らに降りかかってくる「運命」に立ち向かい、それを変革しようと試みることの内にだけではなく、「運命」を耐え抜くことの内にも宿るのではないだろうか。心理学者としてのフランクルの思考はここにおいて、キルケゴールのみならず、古代において「運命」なる主題について思索し続けた、ストア派の哲学者たちの思想とも重なり合うものを持っていると言うこともできるのかもしれません。
「死の中から立ち上がるもの」:尊厳は、破滅の淵において「自己」を見出だす
フランクルの言葉:
「たとえば、あるときわたしがひとりの仲間に、なぜあなたの飢餓浮腫は消えたのでしょうね、とたずねると、仲間はおどけて打ち明けた。『そのことで涙が涸れるほど泣いたからですよ……。』」
苦しみなるものをその深みにおいて味わったことのある人は恐らく、「わたしはいかなる災いをも恐れない」とはもはや簡単には言えなくなるのではないか。なぜならば、その人は今や、苦しみが人間存在を「絶望」へと追い込んでしまいうるものであることを知っており、苦しみや災いは、人間のいかなる想像をも超えたところから襲いかかって来ることがありうると身をもって学んだからです。それでも、その人はまた、一度やって来てしまった苦しみというのは、いかなる仕方であれ、それを耐え抜くことを通してしか克服することのできないものであることをもまた深く学んだのではないか。苦しむ人間には「死に至る病」であるところの「絶望」に侵されて苦悶し続けるという可能性もありうるが、彼あるいは彼女にはまた「苦しみ抜くこと」を通して、新しい命の内へと目覚めるという可能性もありうる。上に引用した箇所においてフランクルは飢餓浮腫が消えた人の例を報告していますが、心と身体とが一筋縄ではないゆかない仕方で絡み合っている人間なる存在者においては、魂において一度死に、その後に甦ることによって、体においても病や不調を克服するということが往々にして起こることは確かなようです。
私たちが目下追い続けている「自己」なる主題との関係で言うならば、今回の記事で取り上げたフランクルの言葉は、「人間が真の意味における『自己自身』なるものへと到達するためには、その人に運命の分け前として与えられた痛みを、その人自身に固有の『務め』として耐え抜くことが必要であるという場合もありうるのではないか?」という問題を提起するものであると見ることもできるのではないか。
苦しみがやって来ることを自分から願うという人は、誰もいません。しかしながら、フランクルやキルケゴール、そして、アウグスティヌスといった思索者たちは、自らに与えられた苦しみに一度は打ちのめされ、そのまま生き続けることを放棄しそうになりながらも、ぎりぎりのところで命のもとにとどまりつつ、その苦しみを苦しみ抜くことを通して自らの思想を築き上げてゆきました。精神の生とは、死に襲いかかられ、死に飲み込まれそうになりながらも、最後のところで命そのものを再び取り戻す生に他ならない。破滅の淵へと追いやられた精神は、危ういところでその破滅から救い出されて、それまでには不可能であったような仕方で「自己自身」を新たに受け取り直す。絶望し、苦しむ人間は、その破局のただ中において「『自己』は死の中から立ち上がる」という実存論的事実を、まさしく実地で学ぶことになるのではないか。さらに進んで考えるならば、哲学的省察は絶望や苦しみの問題に向き合うことを通して、死の中から立ち上がるものこそが真の「自己」なのであるということを見出さずにはおかないのではないだろうか。「絶望」のうちに弁証法的な契機を見出そうとするこのような物の捉え方は、事によると単なる楽観主義の烙印を押されかねないものであるのかもしれません。それでも、哲学の歴史には『夜と霧』や『死に至る病』、そして、『告白』をはじめとして、このような捉え方を擁護する書物には事欠かないということもまた確かであるものと思われます。
おわりに
信仰の書においては、「あなたは命を滅びの穴から引き上げてくださった」という驚きが何度も表明されていますが、哲学の営みにははたして、このような驚異の出来事の構造と論理を描き出すことが可能なのだろうか。私たちとしては、今回の記事でフランクルの『夜と霧』には一区切りをつけつつ、先に進んでみることにしたいと思います。
[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]