【哲学名言】断片から見た世界 アウグスティヌスの「はじめての聖書体験」

青年アウグスティヌス、聖書に失望する

キケロを読むことによってアウグスティヌスは、「真実の知恵の探求」への情熱を呼びさまされます。その勢いで彼は、書物の中の書物とも呼ばれる「聖書」に挑戦してみるのですが……。

「こうしてわたしは、聖書に心をむけ、それがどのようなものであるかをみようと決心した。そうしたらどうであったことか、わたしの目にいるものはたかぶるものにはしられず、幼いものにはあきらかにされず、入口は低く見えてその奥は高く、神秘におおわれているものを見るのである。しかし、当時はそのうちにはいっていけるものではなく、あるいは首をかがめてそのあとをたずねるようなものではなかった……。」

後に「古代教会における最大の教父」とも呼ばれるアウグスティヌスの、初めての本格的な聖書体験は空振りに終わってしまったようです。今回の記事では、この辺りの事情について探ってみることにします。

はたして真摯だったのかそうでなかったのかよくわからない、19歳のアウグスティヌス

少し話を遡って、アウグスティヌスがキケロの『ホルテンシウス』を読んだ時のことに話を戻します。「哲学へのすすめ」の言葉に感動しながらも、当時19歳のアウグスティヌスが少しだけ物足りなく思ったのは、『ホルテンシウス』のうちにはイエス・キリストの名前が見当たらなかったことでした。

すでに述べたように、アウグスティヌスの父は信仰を持っていませんでしたが、母は熱心なクリスチャンでした。アウグスティヌスはその関係もあって、当時の教会に日常的に出入りはしていたようです。だからこそ、哲学の探求に向かって生まれて初めて心を燃え立たせた時、「真理といえばキリストなのではないか?」という発想が、自然に出てきたというわけでした。なお、蛇足ですが、キケロが生きていたのはイエスよりもぎりぎり数十年ほど前なので、『ホルテンシウス』の中にはイエスの名前が出てきようもないことは確かです。

話を戻します。「真理といえばキリスト」というわりには、アウグスティヌス青年はその頃、真面目に教会の礼拝に出ていたわけではなかった模様です。それどころか、この時期についての彼の回想の言葉によれば、ある時、教会の内部で何かの厳かな行事が行われていた際には、彼は事もあろうにその最中に欲情をもよおし、実際の相手がいたかいなかったまでは分からないのですが、何と言いますか、その、勢いあまって何らかのワイセツな行為に及んだこともあったもののようです(『告白』第3巻第3章より。本人の叙述がきわめて曖昧模糊としているため、詳細は不明)。正確に言って一体どんなご乱行であったのか、知りたいような、知りたくないような逸話ではありますが、物語の流れの中にこうした赤裸々な真実が突然に挿入されて読者を戸惑わせずにはおかないというのも、『告白』という本の特徴の一つとなっていると言えるのかもしれません。

「神秘に覆われているものが、露わになるのは……。」:『告白』のエピソードは私たちに、「時」なるものの大切さを教えている

さて、そのような経緯で「人生の真実」を求めて、聖書を初めて本格的に読んでみたアウグスティヌス青年ですが、結果はすでに述べたように、空振り以外の何物でもありませんでした。彼は、聖書の文体に失望しました。それというのも、この本のうちにはキケロの文章のうちに見られるような、きらびやかで荘重なところが全くなかったからです。つまるところ、聖書の言葉は、当時の彼にとってはあまりにも素朴で単純なものに見えたようです。

「わたしの目にいるものはたかぶるものにはしられず、幼いものにはあきらかにされず、入口は低く見えてその奥は高く、神秘におおわれているものを見るのである。」すでに上に引用した部分を再びここに引きましたが、この時の出来事を振り返りながら、後年のアウグスティヌスはそう回想しています。すなわち、32歳の時の「取って読め」の体験を経た後の彼にとっては、聖書という本は、簡素な文体のうちにも奥深さを秘め、真剣に読む人に対してはこの上もない神秘をあらわにするところの、まさしく「書物の中の書物」にほかなりませんでした。ところが、本物の知恵というものは、素朴にも見える外見をまとって隠れていることもありうるなどといった発想とは無縁であった19歳のアウグスティヌス青年にとっては、聖書は「期待して読んだけれど、がっかりした本」の一例に過ぎなかったのです。

結局、このエピソードを通して学べることは、私たちが生きているこの人生なるものにおいては、何事にも、それに相応しい時があるという教訓にほかならないのではないでしょうか。私たちの日々の生活のうちでは時おり、当の私たち自身でさえも心の底から驚かずにはいられないような、まさしく奇跡のような出来事も確かに起こります。しかし、その「時」が来ていないうちに、無理にその出来事を来させようと試みたとしても、そうした試みは決してうまくはゆかないもののようです。この点、「待つことを学ぶべし」というのは、年月を重ねれば重ねるほどに深く納得されてくる教えであると言えるのかもしれません。

おわりに

「長々と時は流れるが、それでも本当のことは起こる。」今回の記事で取り扱った出来事を通して言えるのはおそらく、もしも私たちが親しい誰かに何らかのとても大切なことを伝えようとしていて、それが伝わらずに打ち沈むようなことが仮にあったとしても、そう簡単に諦めるには及ばないということなのではないでしょうか。私たちの伝えたいことが真実で、愛が「時」を耐えしのぶだけの広さ、長さ、高さ、深さを備えているならば、私たちの伝えたいことは、いつか必ずその相手にもしっかりと伝わるはずです。最後は少し話が本題から逸れてしまいましたが、私たちとしては引き続き、『告白』の物語をたどってゆくことにしたいと思います。

[『告白』読解も、そろそろ連載を開始してから三ヶ月になろうとしています。今回の記事では、アウグスティヌスが19歳の時の出来事とを取り扱いましたが、「真実の生の探求」を主題としつつ、一人の人間の生涯を読者の方と共に分かち合わせていただいていることには、感謝というほかありません。この読解は、いわゆる学術的な研究とは異なる仕方でではありますが、『告白』が投げかけている問いかけに対して、2022年を生きている現代の人間として応答することを目指しています。読者の方が改めてこの本に出会い、さまざまな人生の問題について考えてみるきっかけになれるとしたら、これ以上の喜びはありません。]

philo1985

philo1985

東京大学博士課程で学んだのち、キリスト者として哲学に取り組んでいる。現在は、Xを通して活動を行っている。

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