「存在の意味への問い」を問うことは、「生きることの意味」とどのように関わるのか?:ハイデガーとアウグスティヌスの探求が重なり合う地点を探る
「存在の意味への問い」を問うことは思索者としてのハイデガーにとって、世界そのものの運命を問うことに他なりませんでした。
「この先行する問いーこれはおそらく真面目な問いではあろう。だが確かに、これははなはだ無益な問いでもある。とはいえ、これは一つの問いであるには違いなく、しかもこれこそは問いと言える問いである。『存在』とは単なる語なのか、そしてそれの意味は幻であるのか、それともそれは西洋の精神的宿命であるのか?」
彼にとって、「存在の意味への問い」を問うことは、現代という時代の運命とどのように繋がっていたのでしょうか。今回の記事では、2023年の現在においてアウグスティヌスの『告白』を読み直す試みが向かってゆくべき方向のことを同時に念頭に置きつつ、この点をめぐって考えてみることにします。
「技術それ自体が荒れ狂い、人間を駆り立ててゆく」:ハイデガーの時代認識
『形而上学入門』に収められている1935年の夏学期講義において、ハイデガーは次のように言っています。
現代の人間が置かれている状況に関する、ハイデガーの言葉:
「それは、狂奔する技術と[…]底のない組織との絶望的狂乱である。地球のすみからすみまで技術的に征服されて、[…]どこで、いつ、どんな事件があろうと、それがみな思いどおりの速さで知られるようになり、フランスの或る国王暗殺計画も、東京の交響楽の演奏会も同時に『体験』することができ、時間とは、かろうじて速さ、瞬間性、同時性であるにすぎず、[…]拳闘家が民族の偉人と思われ、何百万という大群衆の数が勝利であるようになっているとき、ーこのとき、まさにこのときにおいて、[…]何のために?ーどこへ?ーそしてこの後何が?ーという問いが幽霊のように襲いかかってくる……。」
前回に続いて、ここでも議論を二点に分けて整理しておくことにします。
① ハイデガーにとって、惑星規模で進行しつつある技術の発達は、人間を、人間自身が気づかないうちに「存在」を問うことへの目覚めから遠ざからせ、「生きることの無意味」のうちへと追いやってゆく巨大な流れを形作るものに他なりませんでした。現代の世界においては、速さや同時性がひたすらに追い求められる結果、人間は腰を据えて物事を静かに考えるよりも、絶えずその時その時の「今話題のトピック」を追い続けることへと駆り立てられることになります。このことは、ハイデガーの言葉を用いて表現するならば、さまざまな「存在者」をめぐって目まぐるしく狂奔することによって、「存在」を、「存在者が存在する」という事実に目が向けられなくなってしまうことを意味します。
② 従って、現代世界において恒常的なものと化している「数の論理による際限のない駆り立て」という事態は、技術、あるいはテクノロジーの問題と結びつけて考えられなければならないと、ハイデガーは考えました。数が多いこと、規模が大きいことがそれだけで価値のあることとされ、現在時において巨大なものとなっている「今話題のトピック」が、次々と現れては瞬く間に忘れられ、そのまま消え去ってゆく。現代の世界において、「何のために?」、すなわち、「全てのことは、本当は無意味なのではないか?」という問いが幽霊のように私たちに対して襲いかかってきているとすれば、その事態は根底においては、技術それ自体が際限なく荒れ狂い、人間を駆り立て続けているということに基づいているのではないか。「生きることの無意味」の問題を考え抜くためには、「無意味」のただ中でさまよいながらあちこちに駆り立てられ続けることから向き直って、問題の根源の方へと遡ってゆく必要があるのではないか。思索者としてのハイデガーにとって、「存在の意味への問い」を問うということは、こうした絶え間のない流れのうちに自らも身を置きながらも、その流れの中で踏みとどまりつつ、現代という時代が自らの「彼方」へと向き直り、「彼方」へと突き抜けてゆく可能性を考え続けることを意味していたと言うことができるかもしれません。
「『ある』への目覚めは、無意味を吹き飛ばす」
論点:
哲学の道を歩むとは、〈多なるもの〉への分散から身を引き離しつつ、〈一なるもの〉へとひたすらに向かってゆくことを意味するのではないだろうか。
現代の世界における「駆り立て」の動向と、「存在」へと向かう思索とを対比させるハイデガーの姿勢は、場合によっては非常に極端なものにも見えるかもしれません。しかし、そのような対比を通して、「ある」の謎に立ち向かうことを決断してゆく彼の立場は、『告白』におけるアウグスティヌスの探求とも深いところで重なり合うものを持っていると言えるのではないだろうか。
「神よ、産みの苦しみに悩むわたしの心はどれほど苦悩をなめたことであろう。」探求の日々のただ中で「ミラノの見神」を体験した頃の31歳のアウグスティヌスもまた、「生きることの無意味」の問題をめぐって、すなわち、「何のために生きるのか?」という問いをめぐって苦しみ続けていました。
単独者であるとは、「わたしの生に意味はあるのか?」というおのれ自身の問いかけに対して、実存を賭けて答えを求めざるをえないという運命を背負わされることを意味します。ローマ帝国の上層部を構成するエリートたちの社会への仲間入りを果たすこと、知力を発揮することを通して、多くの人々から知られることを求めていた過去の自分はすでに遠ざかり、アウグスティヌスは、ほとんど自分でもその理由が分からないままに、気がついてみると、哲学の書物を死に物狂いで読みふけりながら「生きることの意味」を追い求め続けていました。彼が〈他者〉の声を、すなわち、「わたしは存在するものである」という驚くべき声を「彼方からの声」として心の中で聞いたのは、そうした息切れのするような探求の日々のただ中のことであったといえます。
ハイデガーとアウグスティヌスという二人の探求者の実存の重なり合いについて考えてみるとき、哲学の書物としての『告白』を読み進めている私たちには、2023年の現在において「存在の意味への問い」を問うことが持っている意味が、改めて明らかになってくるのではないだろうか。すなわち、「存在の意味への問い」を問うこと、「『ある』とはいかなることを意味するか?」という問いに対する答えを探し求めることは、単なる抽象的な問いに終わることは決してない。それはむしろ、あらゆる問いの中で最も具体的な問いを問うこと、哲学の営みを哲学の営みたらしめている、その中核の問いに向き合うことに他ならないのであって、「生きることの無意味」をめぐる絶望あるいは苦しみの問題にもまた、この問いを問うことを通してこそ決定が下されることになるはずである。アウグスティヌスの哲学的実存において、根源的な「ある」との出会いは不可視の閃光、あるいは真理そのものからの啓示のようにして、無意味を吹き飛ばした。彼の探求において、「存在」はいかにして「愛」と結び合っていたのか。私たちは「愛」という言葉を軽んじ、呪詛し、侮蔑してさえいるが、それは私たちがまだ、この言葉が指し示すもののために血を流したことがないからなのではないか。これらのことに関しては、これから時間をかけて一歩一歩その実相を探り当ててゆくほかなさそうですが、「ミラノの見神」に関するアウグスティヌスの証言は、「ある」の根源的な意味に出会うことが人間存在にとって、死の可能性が迫ってくるただ中で、命そのものに触れることにも等しい意味を持ちうることを示すもののように思われます。
おわりに
「おお、永遠の真理よ、真理なる愛よ、愛なる永遠よ、あなたはわたしの神であり、あなたを求めて、わたしは『夜も昼も』あえぐのである。」現代の人間が、このような呼びかけの言葉のうちで反響している意味の響きを十全な仕方で聞き取るためには、おそらくは「存在の意味への問い」を再び根底のところから問い直すことが必要なのではないか。今から百年ほど前、「存在の意味への問い」を提起した先人であるハイデガーにもまた、講義の中でアウグスティヌスの『告白』を取り上げながら「生きること」の概念を掘り下げていた時期があったという事実は、この点からすると非常に意味深いものをはらんでいると言えるのかもしれません。私たちとしてはもう少しハイデガーの言葉のもとに踏みとどまりつつ、探求を続けてみることにしたいと思います。
[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]