アウグスティヌスの学びが、一定の収束点へと達する
司教として多忙な生活を送るアンブロシウスと直接に話をする機会はあまり多くは与えられませんでしたが、青年アウグスティヌスは彼の説教を聞くことを通して、キリスト教の教えを少しずつ学んでゆきます。
「というのは、かれのいわれる事柄もあながち捨てたものではないということが、まず明らかになりはじめた。またカトリックの信仰は、それに反対するマニ教徒に対して弁護する余地がないと考えていたが、いまではその信仰を少しも憚ることなく主張することができると思うようになった……。」
アウグスティヌスの知的探究心が旺盛だったこともあって、この学びは間もなく一定の収束点へと達することになります。今回の記事では、この辺りの事情について見てみることにします。
母モニカの到着、そして
まずは、この頃のアウグスティヌスの外面的な状況を確認しておくことにします。地中海の向こう側に置き去りにされていた母モニカは息子の跡を追うようにしてミラノに到着しており、アウグスティヌスがもはやマニ教徒ではなくなっていることを知ります。
これより以前、息子は母を騙して海を渡ってしまっていたわけですが、モニカはそのことを咎めることはしませんでした。また、アウグスティヌスが司教アンブロシウスのもとでキリスト教の教えを学んでいることを聞いた時にも、「わが意を得たり!」と喜びに身を躍らせることは差し控えていたようです。
母はただ息子に、「あなたもわたしと同じように、いつの日か信仰を持つ人間へと変えられることを信じる」と告げただけでした。モニカは以前に見た夢のために、アウグスティヌスの身に将来起こることについて、確信に近いものを持っていたのです(この点に関しては、4月4日の記事「母モニカの見た夢」で論じました)。母のこの冷静な態度は、その後の展開から振り返ってみるならば、非常に賢明なものであったと言うことができるかもしれません。
そうこうしているうちに、アウグスティヌスはアンブロシウスの説教を通して、キリスト教の教えを一通り理解することになりました。ただし、この時点での彼は「信じるようになった」というよりは、あくまでも「知的に理解し、教えの論理的な一貫性については納得した」といった状態で、この教えに自分自身の人生を投じてゆくどうかについての判断は差し控えていました。彼が回心を経て「信仰を持つ人間」への決定的な変容を遂げるまでには、なおしばらくの月日を待つことになります。
「探求においては、「重荷」の真正さこそが……。」
論点:
〈愛〉について、それを一通り理解することと、〈愛〉の存在に打たれ、生き方そのものが変わるほどまでにそれを根底から理解することととの間には、きわめて大きな距離があるのではないだろうか。
鋭敏な知性を持った若者として、アウグスティヌスは司教アンブロシウスが言っていることの内容をきわめて的確に、かつ、迅速に学んでいったことでしょう。仮にこの時期に、教えのことで誰かから質問を受けたとしても、おそらく彼は多くのことについて模範的な回答を与えることができたに違いありません。それでも、この時期の彼はまだ、「神の愛」をその深みにおいて知る人間でも、その「神の愛」に生きる人間でもありませんでした。彼の「理解」はいまだ、彼の生き方そのものを深く変容させるには至っていなかったわけです。
「理解」とは、実存そのものを巻き込むような人間の存在のあり方を意味することを考えるならば、私たちの心を奥底から揺り動かすことのできるものはただ、「内的な苦闘」としか呼びようのないものをくぐり抜けたもののみであると言えるのかもしれません。この苦闘の過程なくしては、その人の言葉は借り物になってしまい、語ることは十全な力を持ちません。哲学の道を行くとはある意味で、この根本法則の揺らぐことのなさを知ってゆく過程にほかならないと言えるのではないか。
この後のアウグスティヌスの人生は、その後の哲学の歴史において決定的な意味を持つことになる、さまざまな概念を生み出してゆく探求の連続にほかなりませんでした。「恩寵」と「自由意志」、「時間」や「記憶」といった問題圏は、彼がその驚くべき精力と共に先駆者として掘り下げていったものであったと言うことができるでしょう。しかし、彼がこうした問題圏の内へと後に突入してゆくことになるためには、彼はなお数多くの苦しみや試練を自らの存在でもって経験しなくてはなりません。他の多くの領野と同じく、哲学の探求においても、究極的にはそれぞれの人間が背負うことになる「重荷」の真正さこそが、その人が探求の果てに何を見出すことになるのかを決定します。アウグスティヌスの哲学の学びは、彼がついに彼自身の「重荷」と本格的に向き合い始める地点にまで到達しつつあったと言うこともできそうです。
【おわりに】
「力は、弱さの中でこそ十分に発揮されるものだ。」おそらく、探求の道を行く人間に必要なのは強靭な精神力を持つことというよりも、自分自身の「重荷」がやって来た時に、それを背負うことが究極的には自らの幸福へとつながっているとひたすらに信じ続けることの方なのではないでしょうか。私たちとしては引き続き、青年アウグスティヌスの真理の探求の道のりをたどってゆくことにしたいと思います。
[哲学を探求している方向けのマニアックな補足にはなってしまいますが、今回の記事で触れた「理解」については、ハイデッガー『存在と時間』における「理解 Verstehen」概念を掘り下げる関心から、この語を用いました。この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]