いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。(マタイによる福音書13章29〜30節)
「神の国」についての主イエスの譬(たと)えである。「ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている聞に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った」(24〜25節)。良い種を畑に蒔く人のように、今、神はこの世界に福音の種を蒔いておられる。その結果、この世界に「良い麦」と言われる御国の子らが育っている。それはやがて大きく成長してゆくと、主イエスは言う。
にもかかわらず、この世界に「毒麦」とも言うべき悪がはびこっているのは何故か。「だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう」(27節)。僕(しもべ)たちの疑問に対して、主人は「悪魔の仕業だ」と答えた。「では、行って毒麦を抜き取ってしまいましょう」と言う性急な僕たちに、主人は今日の聖句を語って、毒麦を抜くことを禁じた。私たちは神の僕であっても、麦と毒麦を正しく判別できないし、その資格もない。たとい今は神に敵対している人でも、最後までそうかどうか私たちには分からない。正しく裁くのは神だけである。今は悪しき者が力を振るっていても、必ず裁かれる日が来る。だから「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と主イエスは言う。
この言葉に、人の悔い改めを待つ神の忍耐と愛が示されている。神は人が一人でも失われることを望まない。神が待ってくださったので、私たちは救われた。私たちは、私たちを待ってくださる神の忍耐と愛によって救われたのであるから、他者に対して性急な判断を下さず、愛と望みをもって待つ者でなければならない。