聖書は「脱・因果応報」の書物です。【聖書からよもやま話326】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、創世記の42章です。よろしくどうぞ。

創世記 42章21〜22節

彼らは互いに言った。「まったく、われわれは弟のことで罰を受けているのだ。あれが、あわれみを求めたとき、その心の苦しみを見ながら、聞き入れなかった。それで、われわれはこんな苦しみにあっているのだ。」ルベンが言った。「私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのに、おまえたちは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けているのだ。」
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

人間ってなかなか因果応報、自業自得の考え方から抜け出すことができません。特に日本人にはその傾向が強いように思います。このシーンに出てくる兄弟たちも「自分たちが今、こんなに辛い目にあっているのは、自分たちが弟に酷いことをした罰に違いない」と因果応報的な考え方をしています。さらにはこの直後に長男のルベンは「俺はだから弟をいじめるのはやめようっていったんだ。なのにお前たちがあんなことをするからこんな目にあうんだ!」と、責任のなすりつけを始めました。

因果応報の考え方って、このように割と簡単に責任転嫁に結びつきます。「すべては誰か、あるいは何かのせいである」から、「その誰かは誰か。その何かは何か。」と犯人探しが始まるからです。今の世でも人間のこの傾向は変わっていません。何かが起これば原因を探し、その原因が人間であれば、その人間を弾劾するということがいわば「正義」として行われています。

しかし、本当はこの世界はそれほど因果応報で動いてはいません。この箇所で言われている「弟」ヨセフがエジプトに渡ったのは、神様の意思によってであって、兄たちのいじめは、もちろん形而下の現象としては原因に見えるかもしれませんが、本当の理由ではありません。ヨセフをエジプトに行かせる、という神様の意思が先にあって、兄たちの行動はその手段に過ぎません。兄たちがヨセフをいじめなくても、ヨセフは何らかの形でエジプトに行ったはずです。聖書で示されている神様の意思とはそういうものです。
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そもそも、兄たちが苦しんでいるのは飢饉によるのであって、その飢饉が起こったことと彼らの行動には何の関係もありません。その飢饉によって、彼らだけでなく、その地方の人はみんな苦しんでいたんですから。現代で言えば「この大不況は、昔僕が学校であの子をいじめたからだ」と思っているようなものです。それははっきり言って自意識過剰かと思いますし、それがもし「この大不況は昔お前が学校であの子をいじめたからだ」と、人に責任を押し付けるなら理不尽極まりないことです。(もちろんいじめはダメですけど)

このストーリーのこの後の展開を見ますと、兄たちは最終的にヨセフによって恵まれた生活を送ることになります。因果応報的な考え方をするなら「弟をいじめた結果、最終的に恵まれた生活を送るようになった」と、悪いことをして良いことを得るという、いわゆる自業自得とは正反対の因果を形成することになります。世間一般の感覚からすると、こんな「悪いことをしていい結果を得る」なんて、ちょっとゆるしがたいことですよね。

でも聖書にはこんな展開が他にもたくさんあります。それは「人間は誰しもみんな悪いことをする」という前提があるからです。そこに「悪いことをしたら悪い結果を招く」なんて因果応報を持ち込んでしまったら、誰一人として幸せになれなくなってしまうんです。だから神様は因果応報をぶち破って人間に働きかけて、「悪いことをする君達であっても、私が幸せにするぞ」と言ってくださっているわけです。

聖書は「脱・因果応報」の書物なんです。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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