【哲学名言】断片から見た世界 マイケル・サンデルの言葉

ハーバード大学教授は、現代の世界について何を語るのか? ーマイケル・サンデルの近著から

今回は2021年11月現在、現役で活躍中の哲学者の言葉を通して、アメリカという国と、これからの世界の行く末について考えてみることにしましょう。

「人はその才能に市場が与えるどんな富にも値するという能力主義的な信念は、連帯をほとんど不可能なプロジェクトにしてしまう。いったいなぜ、成功者が社会の恵まれないメンバーに負うものがあるというのだろうか?その問いに答えるためには、われわれはどれほど頑張ったにしても、自分だけの力で身を立て、生きているのではないこと、才能を認めてくれる社会に生まれたのは幸運のおかげで、自分の手柄ではないことを認めなくてはならない。[…]そのような謙虚さが、われわれを分断する冷酷な成功の倫理から引き返すきっかけとなる。能力の専制を超えて、怨嗟の少ない、より寛容な公共生活へ向かわせてくれるのだ。」

この文章は、日本でも「ハーバード白熱教室」などのTVでの活躍を通してよく知られているハーバード大学哲学教授、マイケル・サンデルの言葉です。彼が2020年に刊行した『実力も運のうち 能力主義は正義か?』(原題’’The Tyranny of Merit’’)は一体、何を問題にしている本なのでしょうか。この本で彼が用いている「メリトクラシー」という言葉の射程を理解するために、ある一人のアメリカ人女性の物語を通して「アメリカン・ドリーム」なる主題を取り上げるところから、話を始めてみることにします。

「わたしは世界を征服するわ」 ーマドンナと、「ライク・ア・ヴァージン」の物語

1984年の年末ごろ、アメリカ中の人々は一人のポップスの女王の誕生を前にして、みな目を点にして、あっけにとられていました。「マドンナ」なる新人の歌手が放った「ライク・ア・ヴァージン(邦題にするならば「まるでヴァージン♫」といったところでしょうか)」という楽曲のあまりにもすさまじいインパクトに、みな度肝を抜かれていたからです。

この曲を歌うのは、今にも世界を征服してやるとばかりに鋭く眼光を光らせ、また、実際にも「わたしはこれから、世界を征服するわ」とメディアを通して宣言もしていた(!)一人の超・強キャラ女性、マドンナその人でした。このマドンナがTV画面の中で、「二人の愛は永遠よ♫」「わたしの隣にいる、あなたの鼓動を感じるわ……♡」といった純愛ど真ん中の歌詞をノリノリかつセクシーに歌い上げながら、あの忘れえぬフレーズ「まるでヴァージンみたいな気分!」を連呼しているのです。この歌を聞いた誰もが、「『まるで』ってこの歌詞、ツッコミどころ満載すぎだろ……」と思わずにいられませんでしたが、もはや誰も彼女の勢いを止められる人はいません。

こうして、「処女性と娼婦性とを同時に体現する、謎のイケイケソング」あるいは「誰がどう見ても、純愛よりはむしろ世界征服の野望に燃えているように見えるブロンドの女王が熱唱する、純愛系ヴァージン・ソング」としての「ライク・ア・ヴァージン」はモンスター級の売り上げを記録し、男性ファンのみならず、彼女の生きざまに感動したフェミニストをも含む、多くの女性ファンたちからも受け入られました。マスコミの報道は、「このマドンナという女性は何なんだ!?」という話題によって軒並み占拠されることになります。それはまさしく、アメリカの文化史の画期をしるしづけるポップ・アイコン、「マドンナ」の大ブレイクの瞬間にほかなりませんでした。

Image by Tú Nguyễn from Pixabay

行き過ぎた「アメリカン・ドリーム」は、正義の原則にかなっているのか? ーマイケル・サンデルは、公正な社会のあり方について考える

これより遡ること6年前の1978年の夏に、マドンナがトランクと胸一杯の野心だけを抱えてニューヨークの街にやって来た時には、彼女はまだ20歳になったばかりの、夢見る一人の女性にすぎませんでした。それが6年後にはあっという間にアメリカ中、そして、世界中で彼女の名前を知らない人はいないといった状況になっていたわけで、彼女の物語はまさしく「アメリカン・ドリーム」と呼ばれるサクセス・ストーリーの典型であると言ってよいでしょう。

こうした物語は多くの人の胸を躍らせずにはいないものですが、果たしてこの「アメリカン・ドリーム」なる夢物語が今なお再生産され続けているアメリカという国は現在、本当によい国であると言えるのだろうか。こうした疑問に基づいて書かれた本こそが、マイケル・サンデルの『実力も運のうち』にほかなりません。

「アメリカン・ドリーム」の物語は、「努力し続けてすばらしい能力を身につけ、誰の目にも明らかな功績を残すならば、誰でも成功することができる」という価値観に基づいています。こうした価値観こそが、サンデルのいうところの「メリトクラシー(翻訳するならば「能力主義」「功績主義」、あるいは「能力専制」とでもなるでしょうか)」という社会のあり方を生み出すものにほかなりませんが、こうした考え方が浸透している現在のアメリカ社会は本当に、公正で正義にかなった社会であると言えるのでしょうか。

今のアメリカでは格差や人種間の分断の問題がもはや有無を言わせないほどに深刻なものとなっていることは、海を隔てたところに住んでいる私たちにさえもよく知られている事実です。しかし、「アメリカン・ドリーム」の神話や、「メリトクラシー」という社会のあり方がこれまでの歴史の蓄積を通して、いわば人々の骨の髄にまでしみ込んでしまっているアメリカという国では、「能力主義という考え方自体のうちに、何らかの問題があるのではないか?」という問いを提起することは、常に簡単ではありません。

こうして、サンデルの企ては、アメリカン・ドリームの狂騒曲(「もはや誰もそれを本気で信じているわけではないにも関わらず、誰もそれを止めることはできない」)が鳴り響いているただ中でアメリカン・ドリームの構造自体を問いに付すという、困難な戦いの様相を呈することになります。その戦いは「この弱肉強食のゲームの中で、わたしだけは勝ち上がる」の叫び声に臆することなく「私たちはみな、一人だけで生きているのではない」を何とか響かせようとするものなのですから、まさしく困難なもの以外ではありえないでしょう。21世紀の今日にあって「寛容」や「連帯」といった昔ながらの言葉がどのようにして生き続けることができるのかを考える上でも、サンデルの『実力も運のうち』は非常に参考になる本であるといえそうです。

おわりに

私たちの国では、アメリカほど状況は極端なものではないと一応は言えそうですが、マイケル・サンデルが提起している「メリトクラシー=能力主義の行き過ぎ」の問題がこれからの世界の行く先を考える上で重要なものであることは、いずれにせよ確かです。それにしても、次々に出てくるポップスやエンターテインメントのうちには紛れもない本物の輝きが存在する(cf.マドンナほどに努力家であり、人々を心から楽しませるエンターテインメントを作り上げることに全存在を賭けて打ち込むことのできる人は、なかなかいません)ことも真実なら、そのことによって覆い隠されてしまう事実があることも、それに劣らず確かです。人の世で生きてゆくというのはまことに複雑なことであると言わざるをえませんが、今日の世界にあってコンシャスたらんとする人々には、そのどちらの側面をも見落とすことなく考え続けることが求められているということなのかもしれません。

 






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