──牧師になる前の話を教えてください。
母方の祖父(日高善一)が牧師で、植村正久の一番弟子です。日本で最初に聖書の注解書を書いた人で、また『フランダースの犬』を最初に翻訳した人でもあります。
母は3人きょうだいの長女ですが、次女はバレリーナでプリマでした。弟はサンケイスポーツの芸能記者で、映画「悪魔の手毬唄(てまりうた)」などで市川崑監督と共同ペンネーム「久里子亭(くりすてい。推理作家クリスティのもじり)」名義で脚本を執筆した日高真也です。
私は次男なんです。父方の先祖は「水軍」、すなわち海賊です。私は小学校1年の1学期まで、瀬戸内海の中島という島で祖母に育てられました。祖母が大好きでした。
突然、広島県呉市天応(てんのう)にいた両親に夏休みに引き取られました。私の原風景は、広い畳(たたみ)の部屋で母と私が座り、二人の大工さんが土下座している中で母が私を指し、いくぶん笑みを浮かべて、「この子がいるから大丈夫」と言っていた情景です。兄は2歳の時に病死したため、母は心のバランスを失い、「子どもができれば治る」と言われて生まれてきたのが私で、私を溺愛(できあい)していました。
ところが、弟が生まれると私を育てなくなり、それで祖母が私を育てていたのです。ところが弟も、大工さんの投げた材木に当たって死にます。それで再び私を引き取って溺愛したのです。
そのうち父の会社が倒産して、両親が祖父を頼って東京に行き、私は義理の姉と二人で呉市に残ることになります。姉はバスガイドをしながら私を育ててくれました。家の近所には小学校の担任の先生や教頭先生の家があり、さらにもう1軒、とても親切にしてくれる人がいて、お風呂に入らせてくれたり、泊まらせてくれたり、近所の人に育てられました。海の子、山の子、自然の子と、遊びまくる最高の小学生時代でした。
──教会にも通っていたのですか。
小学校1年の夏休みから呉山手教会に通っていました。長老主義の教会で、私の人間形成と信仰の基盤はそこで作られたと思っています。
──東京にはいつ来られたのですか。
小学校6年生の時に、姉の結婚に伴い、両親に引き取られて、埼玉県の大宮に来ました。
母は、私を牧師にすることが唯一の願いで、そのために「全存在を賭けた」と言っても過言ではありません。また学校も、牧師である祖父が牧会する駒込教会の娘時代から、反対側の丘に聖学院があり、もし結婚して男の子が生まれたら男子聖学院に、女の子なら女子聖学院へと決めていました。それで私が大宮に来ると、聖学院中学部を受験することになったのです。
入学すると、すぐに私は無線部に入りました。電気屋さんになりたかったのですが、そんなことは母が許しません。「何が何でも牧師に」という母の執念に負けて、聖学院高等部を卒業後、東京神学大学に入学しました。
神学校では、生活を180度転換させて来た人ばかりなので、みんな信仰深くて広い。証しも素晴らしく、私は劣等感に苛(さい)なまれました。しかし、大学院の時に四国の無牧の教会に夏期伝道に行き、そこで「伝道って楽しいな」という経験をして、牧師になっていくのです。
──「楽しい」という経験ですか。
楽しいです。何でも楽しんでいます。失敗も、恥をかくことも楽しんでいます。自分の弱さをさらけ出して楽しんでいます。
たとえば、聖学院の中等部に入学したとき、大宮から電車で通学するのが楽しくて仕方なく、入学式の次の日、同級生になった大宮教会の牧師の息子と一緒に山手線を一周して帰りました。ところが、そのことが大宮教会の牧師夫人から聖学院の中学部長に伝えられ、次の日、校長室でものすごく叱られました。中学部長は、大宮教会の教会学校の校長だったのです。
しかも、高等部を卒業するまで続く罰(ばつ)が与えられました。新1年生なのに、中学部全体の礼拝の司会を、そして高等部でも同じように司会をさせられたのです。2年生を飛び越して1年生で司会をさせられたわけですから、私は頭が真っ白になって失敗を重ね、恥をかきまくりました。でも、そのうちに恥をかくことに慣れていきました。私の失敗をクラスみんなで笑ってもらうと、すごく楽になり、心配したり、失敗したり、恥をかいたりすることも楽しめるようになったのです。
──牧師が楽しめない原因はどこにあると思われますか。
「人は誰でも、聞くに速く、語るに遅く、怒るに遅くあるべきです」(ヤコブ1:19)とありますが、私たちは「あのとき怒っておけばよかった」よりも、「あのとき怒らなければよかった」と思うことのほうがはるかに多いのではないでしょうか。怒らないでいたら、気持ちが楽になっているから、人をけっこう赦(ゆる)せます。自分を振り返ってみて、「語るに速く、聞くに遅く、怒るに速く」なっていないか。ここに楽しめない原因があるのではないでしょうか。
私の最初の赴任地である埼玉県の鴻巣(こうのす)教会の1年目の経験がすべてです。礼拝出席12人の教会には裁判問題があり、私は付属幼稚園の園長となり、右往左往の1年目でした。激しい裁判の中で、自分の弱さをさらけ出しました。信徒は素晴らしく、信徒に育てられました。この1年目の確信は、「弱い時にこそ強い」、「聖なる公同の教会を信ず」という二つの確信です。「弱い時にこそ強い」という確信によって、安心して自分の弱さをさらけ出すことができました。そして、この弱さを信徒が支えてくれるのです。こんなに楽しい牧師生活はありません。
──一方、教団のホームページに「牧会者とその家族のための相談室」を開設されました。やはり牧師はストレスが多いのでしょうか。
そこに来る相談はかなり深刻で、実は牧師のうつ病は多くなっています。残念ながら、経済的なことがあったり、いろいろなことを自分一人で処理しなければならない環境であったりと、牧師には過重な圧力がかかって、やむを得ないこともあります。
だから、牧師をケアする場を作るのは大切だと思います。それには休養がいちばんで、教会から離れさせ、家族と一緒に休養してもらい、よくなったらまた復帰してもらえればと思いますが、経済的問題で実現できないことは残念です。しかし、孤独な戦いにならないよう、「牧会者とその家族のための相談室」を設けて、専門家もこれに関わってもらっています。(4に続く)