聖書事業懇談会が4月10日、大阪クリスチャンセンター(大阪市中央区)のOCCホールで開かれた。そこで、12月刊行予定の「聖書協会共同訳」についての講演を、翻訳者・編集委員である飯謙(いい・けん)氏(神戸女学院大学総合文化学科教授)が行った。その内容を連載でお届けする。
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3 近年の研究成果から
20世紀の後半以降、聖書の研究は、歴史的研究と文芸学的研究とを両輪として展開しています。平板化して言えば、前者は、聖書がどのような経過の中で成立したかを、後者は、聖書がどのようにメッセージを表現し、意味単位を構築しているかを問います。
歴史的な研究では、聖書のテクストを小さな単位に区切り、そのまとまりにおける整合性を考えました。しかし近年は、聖書がより大きな編集体として構想されていることに着目しています。翻訳も、それを意識したものであることが望ましいと考えます。
聖書は、一度読んで終わりという書物ではありません。読み手は、繰り返し読むことにより、メッセージを自らの一部としていきます。それゆえ、小さな段落や辞書的な意味ではなく、大きな文脈から意味を受け止めていく立場が重視されます。先行する言い回しが、後続の言表に影響を与えます。テクスト全体から解釈するという立場です。これも、機械的に適用するのではなく、テクストの特性を確かめながら運用されることが求められます。
(1)物語の枠(インクルージオ=囲い込みの構造)
聖書テクストは、基本的に記憶し、暗唱していたといわれます。同一フレーズが、単元や段落の区分のために用いられることは珍しくありません。これが文学単位としての枠を形成します。直訳で翻訳作業が行われている間は無自覚的であっても問題は起きませんでしたが、「新共同訳」ではかなりの乱れが目立ちました。今回はその多くが是正され、文学的にも整ったといえます。
ヨブ記の場合、大きくは、散文で書かれた1-2章および42章7-17節の物語部分(外枠)と、詩文によるそれ以外の部分に大別されます。しかし、どちらの部分にも、執筆者は文学的な仕掛けを施し、読者に自ら読み考える主体的な参加を促しています。
1-2章はヨブ記のプロローグで、ウツの地に住むヨブの紹介を行っています。この人は信仰深く、多くの財産を持ち、子どもにも恵まれ、神の祝福を受ける典型ともいえる生活を送っていたと。「新共同訳」は、ヨブが「東の国一番の富豪であった」(1:3)と伝えます。この「富豪」にあたる箇所には、「ガドール」(大きい)というヘブライ語が書かれています。
そして、プロローグの主要部でヨブは、主の命を受けたサタンからさまざまな災難を受けます。病気になり、町の外に隔離されます。「新共同訳」によれば、遠方から訪ねてきた3人の友人は、ヨブの「激しい苦痛」を見て言葉を失ったといいます(2:13)。原文を見ると、この箇所の「激しい」にも「ガドール」の同根語が使われています。
「文語訳」も「口語訳」も、ここは二つの「ガドール」を同じ語で訳していました。「文語訳」では、「此(この)人は東の人の中(うち)にて最も大(おおい)なる者なり……彼が苦悩(くるしみ)の甚(はなは)だ大(おおい)なるを見たればなり」。口語訳では、「東の人々のうちで最も大いなる者であった。……彼の苦しみの非常に大きいのを見た」。
ヨブ記の著者によれば、ヨブの偉大さ(ガドール)は経済的な面に限定されていません。精神的にも、信仰的にも、倫理的にも「大いなる者」でした。その人が「大いなる苦痛を受けた」。不思議なことに、対話編でもエピローグでも、この書はこの後、ヨブについて「ガドール」という語を用いなくなります。「大きさ」にこだわる者ではなくなった、と言おうとしているかに思えます。
今回の翻訳では、ヨブ記のテクスト上の枠には一定程度こだわり、先ほどの箇所にも同じ言葉をあてています。「東の人々の中で最も大いなる人であった。……彼の苦痛が甚だしく大きいのを見た」。ヨブの「大きさ」はこの程度の話だ、人が偉大であるといっても、ここまでのことであると、人の神格化を避けるのです。
もう一つ、「ヨブは完全だった(ターム)」(1:1)にも言い及んでおきたく思います。ここは「口語訳」は「全く」、「新共同訳」では「無垢(むく)な人」と訳されていました。
ヨブの語りの最後である31章40節には、別の活用ですけれども、同じ単語「タッムー」が使われています。「口語訳」は「ヨブの言葉は終った」、「新共同訳」では「ヨブは語り尽くした」と訳されています。やむを得ないことですが、欧米の言語でも、この二つのテクストを関係づける翻訳は見あたりません。しかし、ヨブ記の執筆者にとっては意識した用法だったと思われます。人の思い至る「完全」は尽きてしまうもの、そこまでのものだという論評が聞こえてきそうです。
これまでの翻訳は、こういったテクスト上の枠を生かし切ることができていませんでした。新翻訳では、「彼の言葉は完結した」。「『完』の字が一緒なだけで、大げさに言い立てるな」とご批判をいただきそうですが、皮一枚に過ぎないかもしれませんけれど、細かいところにも配慮しているということです。
その他、ヨブ記4章のエリファズの発言も見ておきたいと思います。エリファズはかなり意地悪な老人として登場します。導入部冒頭の言葉である4章2節は、「新共同訳」で、「あえてひとこと言ってみよう。あなたを疲れさせるだろうが、誰がものをいわずにいられようか」、そして導入部の締めくくりとなる4章5節は、「あなたの上に何事かふりかかると、あなたは弱ってしまう」。
この箇所で「疲れさせる」と「弱ってしまう」には同じ言葉――「耐える」と訳すとよい言葉が使われています。ですから、ここでエリファズは、「あなたは耐えられるだろうか。耐えられないよな」と語っていることになり、その意地悪な性格がにじみ出た、執筆者の意図的な用語法が見られます。このような小さなところにも注意が払われています。(続く)