ツイッターをやっているころに感じたことです。ツイッターに顕著な傾向として、自分と似た属性の人ばかり周囲に集まってくるのです。たとえば私はクリスチャンですから、周囲はクリスチャンだらけになりました。そして発達障害ですから、発達障害の仲間も多かったです。最も多いパターンは、「発達障害かつクリスチャン」という人ですね。
一度、プロのテューバ奏者のかたをフォローしたら、あやうく周囲がテューバだらけになりかけたときもありました。あるとき、ツイッターを始めた私のリアルの友人(クリスチャン)が、「ツイッターって、なんでこんなにクリスチャンばっかりなの?」と驚いていることもありました。なんかツイッターの世界って、そういうふうにできているみたいですね。
しばらく前に見た「せやろがいおじさん」の動画でも、似たようなことを言っている回がありました。なぜ政治の話題がタブーとされているのか。それは政治の話題を出して意見の違いから衝突が起きるのを恐れているからだ。しかし、意見の違う人とも話すべきだ。当の「せやろがいおじさん」自身も、「せやろがいおじさん」をよく見ている傾向の人も、だいたいみなさん意見の合う人と話している傾向は否めませんね。私もそうです。ツイッターの世界はちょっと極端でしたが、でも、私も意見の合う人とばかり話しています。もちろん、ぴったり合う人などは存在しませんし、まったく合わないという人もいないのでしょうけど、「合わない人とも話すべきだ」と言いながら、合う人とばかり話していますね。
確かに、意見の違う人と話さないと学べないことは多いです。意見の合う人とばかり話していたらわからないことはたくさんあるでしょう。それは確かなのですが、結果として私たちは意見の合う人とばかり付き合っている。私も、いろいろな人から叱責を多く受けてきたので、これだけ自分の障害特性を言語化できるようになったという面はあります。それは確かですが、叱責もあまりにひどいと、こうして仕事を1年以上も休むほどになってしまう。私を繰り返し理不尽に叱責し、さんざん軽蔑してきた人々、(残念ながら)私は許せません。私の器が小さいからなのかもしれませんが、それらに感謝できるほど私の器は大きくないのです。
でも、これは私だけではなく、よく観察すると、世の中の多くの人が、自分と意見の合わない人とは対話していません。人と人って、びっくりするほど違うので、まず「衝突」よりも「すれ違い」が起きます。そもそも衝突すらしない。少なくとも「衝突する」というのは、同じ土俵に乗っていますからね。もう「すれ違う」人とは、何を話してもうまく通じないので、お互いに不愉快な思いばかりして、疎遠になってしまうのです。これが上司と部下のような関係だと、迫害やハラスメントのようなことになるので、憎しみが起きますし、どうしようもありません。
それでも、「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」なのですかね。おそらくこれは綺麗ごとではないのでしょうね。意見の合わない人とも、上手に話を合わせて、世の中を渡る人もいます。でも、それは上手に空気を読む能力であって、「意見の合わない人とも話すべきだ」というのとは違うでしょう。時々私は悟ります。この人とは永遠に話が合わない。この人は、長年にわたって私を利用してきただけであって、仲間ではない。この人の言うことのすべて逆が正しいのだ。本当にそう思うことが時々あるのです。
私の口から際限のない悪口が出てきます。憎くて憎くてしようがないのです。でも、それだけのことをされてきたのです。そういう人と仲良くしようとしてきた自分が、バカみたいじゃないですか! これも結論の出ない話ですね。みんな自分と意見の合う人とばかり話しているから。
「敵を愛せ」はイエスの言葉ですが、同じ聖書でもパウロは、「迫害をする者のために祝福を祈りなさい」と言った後、「自分では復讐せず、神の怒りに任せなさい」と言っています。つまり、神が復讐するということ。そして、聖書の終わりのほうのペトロの手紙あたりになってくると、「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません」と言いつつ、「召し使いたち、善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にも従いなさい」とか「妻たちよ、自分の夫に従いなさい」となってきて、なるほど聖書的な自虐みたいなものは、こうして生まれてくるのだな、というふうなことがわかってきます。
「敵を愛せ」というところから、「無慈悲な主人にも従え」となってくるのですから、たまったものではないです。だからこれは綺麗ごとではない。やっぱり私たちは、自分に都合のいい意見しか聞いていないのではないか。おそらく聖書も自分に都合よく読んでいる。私も含めて。
腹ぺこ 発達障害の当事者。偶然に偶然が重なってプロテスタント教会で洗礼を受ける。東京大学大学院博士課程単位取得退学。クラシック音楽オタク。好きな言葉は「見ないで信じる者は幸いである」。
人は本当に「迷惑だけはかけちゃいけない」のか 【発達障害クリスチャンのつぶやき】