キリスト教で有名な「平和の祈り」というものがあります。「神よ、わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。……慰められるよりは慰めることを、理解されるよりは理解することを、愛されるよりは愛することを、わたしが求めますように」。私はどうもこのお祈りが苦手なのです。その理由を正直に書きますと、私は「慰めるよりも慰められたい、理解するよりも理解されたい、愛する以上に愛されたい」と思っているからだろうと思います。私はクリスチャン失格ですかね。
ある別の教会の友人がいます。彼女は身体障害と精神障害を持っています。「私はなーんにも教会のご奉仕(教会での役割)や当番をしていない。ただし、ある礼拝のときに、おにぎりを売る係をしたことがある」と言っていました。
私は「献金を2年以上滞納している」「奉仕は苦手」「みんなの前でお祈りは苦手」「そもそも教会に来ない。日曜はよその教会のオンライン礼拝を見ている」「実は神様を信じていないのではないか」という典型的な「はぐれ信徒」です。そんな私は、水曜の夜の祈祷会だけは行っています。それがなぜなのか、彼女の言葉でようやくわかりました。
私は水曜の夜の祈祷会で、奏楽(オルガンを弾くこと)を担当しているのです。「立派な奉仕をしているではないか」と思われたかもしれませんが、じつは私はオルガンが満足に弾けません。片手でメロディを弾くだけなのです。前奏と賛美歌2曲だけです。しかし、私の通う教会には水曜の夜に都合のつく「本物のオルガニスト」がいないため、私が「ないよりまし」の奏楽をしているだけなのです。これが、私が水曜の夜だけは通える理由だと気づきました。なんだか頼られている感じがするのです。献金は滞納しているけれど、少しだけ人様のお役に立てている気がするのです。本物の奏楽者ではないため、すっぽかすことも稀ではなく、週報に名前が載るわけでもありません。でも、これがモチベーションとなって私は水曜だけは教会に行くのだ、とわかりました。
「あなたがたもこのように労苦して弱い者を助けるように、また、主イエスご自身が『受けるよりは与えるほうが幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、私はいつも身をもって示してきました」(新約聖書 使徒言行録20章35節)。パウロがイエスの言葉を引用している場面です。この言葉はイエスの言行を書いた四つの福音書のどれにも出てきません。ここでパウロが引用しなかったら聖書に載っていないはずの言葉で、どういう文脈でイエスが言ったのか、わかりません。私はずっとこの言葉は苦手でした。先ほどの「平和の祈り」と同様、「与えるよりも受けたいなあ」と思っていたからでしょう。
しかし、イエスはもしかしたら「受けるばっかりのつらさ」も知っていたのではないか。イエスは「受けるよりは与えるほうになりなさい」と言ったのではなく「受けるよりは与えるほうが幸いである」と言ったのです。「100」のうち「99」は受けていても、おにぎり当番であっても片手奏楽であっても「1」与えられたら「幸い」だよね、という文脈で言ったのではないだろうか。そう思ったら、この言葉の意味がまた違ってとらえられます。「あなたはいてくれるだけでいいのですよ」と言われるのもありがたいですけど、何かの役には立ちたいのも人情なのです。