主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、詩篇の126篇です。よろしくどうぞ。
詩篇 126篇4節
主よ ネゲブの流れのように
私たちを元どおりにしてください。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
この一節を読んで、僕は「あぁ、イスラエルにネゲブという川があるのかな」と思ったのですが、調べてみましたらネゲブというのはイスラエルの南にある砂漠の名前なんだそうです。すると「ん?砂漠なのに流れとはこれいかに?」という疑問が生まれます。
さらに調べてみましたら、この砂漠では雨季になると突然とんでもない大雨が降ることがあるようで、この大雨が降るとそれまでの乾燥状態が信じられないほどに、潤うどころかむしろ洪水が起こってしまうほどまでに水が溢れるのだそうです。
ここまで調べると、この詩が言いたいことにも合点がゆきます。乾き切った砂漠が、一夜にして水に満たされるように、自分たちの絶望的な状況も神様の力によれば一夜にして栄光へと変わるのだということを、この詩人は言っているわけです。
現代でもきっと誰もが一度は、絶望的な状況がたとえば一本の電話だとか、1通のメールだとかで一変したというような「奇跡的大逆転」な経験を、大なり小なりしたことがあるのではないでしょうか。それはもちろん必ずしも神様の力とは限りません。しかしそんな「奇跡的大逆転」は、いつだって起こり得るのだということを心に置いているのといないのとでは、危機における心の状態がまったく変わってきます。
危機においては、冷静で的確な判断が求められることも多いですし、心身ともに耐え忍ぶことが求められることも多いでしょう。そんなときに大切なのは心の状態です。心が絶望に埋め尽くされてしまっていれば、冷静な判断もできませんし、苦境を耐え忍ぶこともできません。そこで判断を間違ったり、苦境に耐えきれずに逃げ出したりしてしまえば、さらに状況が悪化することもあります。そこで「ネゲブのような大逆転だってあり得る」という、希望がそれを防ぐ最後の防波堤になるんです。ですからクリスチャンはクリスチャンであるならば、この最後の防波堤を決して手放してはいけません。この希望の有無が、クリスチャンのクリスチャンたる所以だと言っても過言ではありません。相撲で言えば徳俵、かかと一つ分の最後の希望が、逆転の突き落としやうっちゃりに繋がることも多々あります。強い力士こそこの徳俵を上手に使うものです。
昔、こんなジョークに触れたことがあります。
「Q : ある部族が雨乞いの踊りをすると必ず雨が降るという。それはなぜか」
「A : 降るまで踊り続けるから」
シンプルなジョークですし、キリスト教徒はまったく関係のないものなのですけれど、しかしこれにはクリスチャンが決して忘れてはならない「信仰の本質」が現れています。つまり「決して希望を失わず、祈り願うことをやめない」ということです。
「諦めたらそこで試合終了ですよ」という有名なセリフが『SLAM DANK』という漫画にありますが、この「諦める」はあくまで自力の範囲でしかありません。「自分で何とかしようとする」という域を抜けてはいません。しかし信仰とは神の力という絶対的な他力に頼ることです。そこに自分の力が入り込む余地はありません。人がどんなに諦めずに努力してもネゲブに水を溢れさせることは自力ではできないんです。自力で何とかなるうちは、まだ絶望とはいえません。自力ではもはやどうにもならず、他力に頼る他に道がない状況が「絶望的な状況」であり、しかし「信仰=他力への信頼」があれば、その状況でもなお決して「救済への望み」は失われることがないんです。その意味では、たとえ自分の力での勝利を諦めたとしても、試合はまだまだ終了しないんです。むしろクリスチャンにとっての勝負は自力を諦めたときにこそ、始まるんです。諦めてからが試合開始です。
それではまた次回。
主にありて。
MAROでした。
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