キャッチャーは審判ではありません【聖書からよもやま話613】

主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。

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聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は新約聖書、マタイの福音書の23章です。よろしくどうぞ。

マタイの福音書 23章8節

しかし、あなたがたは先生と呼ばれてはいけません。あなたがたの教師はただ一人で、あなたがたはみな兄弟だからです。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

慶應義塾大学にはちょっと独特な風習があります。それは教授や講師を「先生」と呼ばないということです。「先生」と呼ばれるべきは福沢諭吉先生ただ一人であり、その他は教授であっても学生であっても、勉学を始めた時期に差があるだけであって対等な存在である、という理念がその理由です。ですから構内の掲示板でも「〇〇先生」や「〇〇教授」とは書かずに「〇〇君」と記されていたりします。もちろん、日常では一般的な敬称として「先生」と呼ぶこともありますが、正式な場では呼びません。

イエス様が言っているのも、同じコンセプトだと思います。当時、多くの律法学者やパリサイ人たちが「先生(ラビ)」と呼ばれていましたが、彼らもまた神の前では一人の罪人に過ぎませんから、その呼称にはふさわしくないということです。ただ一人「先生」と呼ばれるべき、いわば「唯一絶対のラビ」はイエス・キリストだけです。

日本の教会では牧師のことを「先生」と呼ぶことが多いのですけれど、今日のこの記述を根拠に「牧師を先生と呼んではいけない」という議論がなされることがあります。確かに牧師も神様の前ではただの一人の罪人であって、一般の信徒となんら変わることはありません。ですからたしかに本来の意味での「先生」というのは牧師への呼称としてふさわしくないのかもしれません。しかし現代日本語では一般敬称や単なるニックネームあるいは記号として「先生」という語を用いることも多いですから、その用法である限りはそれほど目くじらを立てなくてもいいのかなと僕は思っています。

ただ、「先生」という語には不思議な魔力がありまして、そう呼ばれているといつの間にやら自分が人よりもちょっと偉くなったような気持ちになってしまったりするものです。「先生」と呼ばれる側の人はそれにはよくよく気をつけなければいけません。そこには悪魔の罠があります。

僕は行政書士であり、作家でもあり、また以前は作曲家でもありました。そのどれもが「先生」と呼ばれる仕事なんです。ですからもう20年も、ともすれば「先生」と呼ばれてしまう生活を続けているのですが、できるだけ「先生」と呼ばれることは避けていますし、お願いできるシチュエーションであれば「先生とは呼ばないでください」とお願いしています。「自分は『先生』なんていう偉い立場ではない」と重々承知していても、そう呼ばれ続けるとちょっと偉くなったような気分になってきてしまう、そういう弱みを僕もまた持っています。作曲家が指揮者や演奏家より偉いわけではないですし、作家が編集者より偉いわけでもありません。それは野球で言えば、「キャッチャーはみんなに指示を出すから他のポジションよりも偉いのである」と言っているようなもの、アメリカンフットボールで言えば「クォーターバックは司令塔だから他のポジションより偉いのである」と言っているようなものです。たしかにキャッチャーやクォーターバックに与えられた役割は大きなものですが、それでもあくまで一人の選手でしかありません。監督や審判ではないわけです。

たしかに「先生」と呼ばれる仕事はスポーツで言えば「司令塔」にあたるポジションだと言えるかもしれません。でもそれはあくまで役割であって、仕事の重要性やまして人の偉さとはまったく無関係です。牧師だって教会の「司令塔」であることはまちがいないでしょうから、そのポジションとして便宜的に「先生」と呼ぶ、呼ばれることは構わないのではないかと思います。あくまでポジションでしかない、ということを忘れさえしなければ。あらゆる「先生」はそのことを忘れて、パリサイ人や律法学者のような落とし穴にはまらないように、よくよく注意する必要があります。キャッチャーの後ろには同じようにマスクを被った審判がいますが、決して自分を審判であると勘違いしてはいけないんです。あくまでプレーヤーであるという自覚、それが「先生」に求められるものかと思います。

それではまた次回。
主にありて。

MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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