アメリカ中西部の白人が大多数を占める教会で、韓国人牧師として奉仕する私の立場は、独特の視点を与えてくれる。この立場だからこそ見える現実があり、それを語る必要性も感じている。2024年、タイム誌は「分裂」を今年のキーワードに選んだが、分断された韓国に生まれ育った者として、私にはそれが妙に身近に感じられた。
選挙シーズンが近づくにつれ、教会の外での変化を耳にするようになった。礼拝後のコーヒーアワーで、ある信徒が話してくれた。「最近、隣の家の人が政治的な理由であいさつを返してくれなくなったんです」と。また別の信徒は、長年の友人とSNSでつながっていたが、政治的な投稿をきっかけに関係が冷めてしまったという。家族の中でさえ、政治的な意見の違いから会話が減っていくケースも珍しくなかった。
教会員たちのSNSを見ていると、分断の深さが手に取るように伝わってくる。同じ教会の信徒同士が、政治的な投稿に「いいね」を押すかどうかで距離を置き始め、日曜日の交わりにまでその影が及んでいる。近所の教会のFacebookページには、「どうしてクリスチャンでありながら、あの候補を支持できるのか」といった投稿が増えていった。コメント欄は批判の応酬となり、そうしたSNS上のやりとりが、実際の教会生活にも大きな影を落としていた。信徒たちの間でも、互いのSNSでの投稿を見て、教会での関係が気まずくなるということが起きていた。
特に気になったのは、一部の教会で説教の中に政治色が強まっていったことだ。聖書箇所を引用しながら、「誰がより神のみ心にふさわしい候補であるか」を力説する近隣の同僚牧師たちの姿。私は韓国で経験してきた分断の現実を思い出しながら、この状況を心配そうに見ていた。守られるべき「政教分離」の原則は、もはやどこにも見当たらないようだった。
そんな中、ある合同メソジスト教会が始めた「親切キャンペーン」(Campaign for Kindness)の話を耳にした。それは、民主党のシンボル・カラーの青と共和党の赤を合わせて紫になるという単純なアイデアだが、その意図に深く共感した。なぜなら、それは単なる政治的な妥協案ではなく、互いの違いを認めながらも、なお共に歩もうとする意志の表明だったからだ。政治的な見解の違いを超えて、キリスト者として愛と親切を示そうというこの呼びかけは、分断に傷ついた多くの人々の心に響いていった。
私の教会でもこの取り組みを始めることにした。教会の電光掲示板には「政治的な立場の違いを超えて、キリストの愛で結ばれる共同体」というメッセージを掲げ、選挙期間中は特に和解について語るようにした。「勝者と敗者ではなく、隣人として共に歩もう」という言葉を、何度も繰り返した。選挙の結果にかかわらず、さまざまな人々への牧会ケアを提供する機会も増えていった。
大きな変化はすぐには見えない。でも、教会員たちは少しずつ、SNSでの政治的な投稿を控えめにするようになった。コーヒーアワーでは、政治の話題を避け、代わりに家族の話や教会の行事について語り合う雰囲気が戻ってきた。「何をしたら良いのか迷っている中、本当に必要だったのは基本的なこと――お互いを尊重し合うことでした」と、ある信徒は語ってくれた。ある日の牧師室で、年配の信徒が私にこう話してくれた。「最近、隣の人と少しずつ話せるようになりました。政治の話は避けてますけどね」。その言葉に、小さな希望を感じた。
分断された母国を持つ者として、私には分裂がもたらす傷の深さがよくわかる。だからこそ、この小さな町の教会で、違う背景を持つ人々が何とか一緒に歩もうとしている姿に、特別な思いを感じている。私たちの取り組みは、主要メディアが報じるような劇的な変化をもたらすものではないかもしれない。しかし、この小さな実践にも、確かな意味があるように思う。
カン・ソナ 東京神学大学神学部卒業、韓国メソジスト神学校と米国の南メソジスト大学にて修士号、米国のガレット神学校にて旧約神学専攻で博士号取得。北イリノイ州の合同メソジスト教会で按手を受け、担任牧師として赴任し現在に至る。