神様は「願いを叶える」存在ではない【聖書からよもやま話496】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、ゼパニヤ書の3章です。よろしくどうぞ。

 

ゼパニヤ書 3章4節

預言者たちは、ふしだらで裏切る者。
祭司たちは聖なるものを冒して、
みおしえを冒瀆する。

(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

現代社会には聖書を都合よく切り取って、私利私欲のために用いるカルト教団やカルトまがいの団体、人物が後を断ちません。それは聖書に限ったことではなく、仏教の経典やイスラムのコーランを都合よく使って、私利私欲を満たす輩もたくさんいます。

しかし、これは現代社会特有の問題ではないようです。ゼパニヤ書が記されたのは紀元前7世紀頃とされていますが、この頃から神様やその教えを都合よく使って、私利私欲を満たす輩がいたようです。しかし、ゼパニヤ書にはその後に、「神様はそんな中でも決して変わることがない」と記されています。それが希望です。

カルトの問題は、決してその教祖や幹部だけの問題ではありません。僕たちもまた、気をつけていなければ簡単にカルトの一翼を担ってしまいます。たとえば「信じればあなたの願いが叶いますよ」と誘惑された時、それはつまり「あなたの私利私欲のために神様を使いませんか」と言われているんです。それに乗ってしまえば僕もあなたも立派にカルトの片棒を担ぐことになります。

神様は決して僕たちの願いを叶えるために存在しているのではありません。もちろん神様は僕たちの願いを叶える力を持っています。神様からすれば僕たちの願いを叶えることくらい簡単なことです。しかし、それを目的に近づいてくる人間を神様はゆるしませんし、その願いを叶えることもありません。そんな目的で神様に近づいて、もし「願いが叶った」ように見えたなら、それを叶えたのは神様ではなく悪魔です。気をつけなくてはいけません。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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