カトリック司教協議会会長談話 「無関心はいのちを奪う」

カトリック平和旬間(8月6日~15日)にあたり、日本カトリック司教協議会の菊地功会長は7月19日、「無関心はいのちを奪います」と題する談話を発表した。

この中で菊地会長は、ロシアによるウクライナへの攻撃で始まった戦争、パレスチナとイスラエルの対立、ミャンマーでのクーデター後の混乱など、いのちを暴力的に奪い去る出来事が世界各地で頻発しているにもかかわらず、「無関心のグローバル化は激しさを増し、すべてはスクリーンの先にある『人ごと』のように取り扱われて」いると指摘。「暴力を生み出しているのは人間であり、それを助長しているのは、わたしたちの無関心」だと強調した。さらに、武力の行使だけでなく、環境破壊に伴う地球温暖化や気候変動、経済状況の悪化や政治的立場からの迫害など、「神の秩序の実現を妨げている、人間の尊厳をないがしろにする社会の現実」の中で、「教会は希望の巡礼者であり続けましょう」と呼び掛け、「わたしたちは過去の過ちに謙遜に学び、その過ちを繰り返さないように努めることができるはずです。幾たびも目撃してきたいのちに対する暴力を止めることができるのは、わたしたち自身です」と訴えた。

談話の全文は以下の通り。


日本カトリック司教協議会会長談話  「無関心はいのちを奪います」

1.79年前の「過ちは繰り返しませぬから」の誓いは

人類の歴史は、過ちの連続であり、過ちを顧みることで前進を目指す道のりでした。79年前、第二次世界大戦末期に原爆が投下されたことで、多くのいのちが奪われた広島の平和公園には、戦後に設置された原爆死没者慰霊碑があります。そこには「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」と記されています。碑文が起草された時、この誓いの言葉の主語は「わたしたち」だと考えていたと言われます。人類史上初めてとなる核兵器の使用という現実を目の当たりにして、わたしたち「人類は」、「過ちは繰り返しませぬから」と誓ったのです。しかしそれから79年が過ぎた今、世界の現実は、果たしてわたしたち人類が誓った姿となっているでしょうか。

2. 終わりなき無防備な市民の犠牲

無防備な市民を巻き込んで、いのちを暴力的に奪い去る出来事は、世界各地で頻発し、加えて一度始まってしまうと、その終わりを見通すことができません。ロシアによるウクライナへの攻撃で始まった戦争は、2年半が経過しても終わりへの道が見えません。パレスチナとイスラエルの対立は泥沼化し、ガザでは3万7千人を超える人たちのいのちが奪われています。アジアにおけるわたしたちの隣人の状況を見ても、ミャンマーではクーデター後の混乱はまだ続いており、すでに3年を超えて、平和の道筋は見えていません。平和を求めて声を上げるミャンマーのカトリック教会は、暴力的な攻撃を受けています。

3. 無関心のグローバル化

今年の新年の世界平和の日のメッセージで、教皇フランシスコは、「人工知能(AI)と平和」をテーマとして掲げ、こう記しています。

「昨今、わたしたちを取り巻いている世界に目を向ければ、軍需産業にまつわる深刻な倫理問題は避けて通れません。遠隔操作システムによる軍事作戦が可能になったことで、それらが引き起こす破壊やその使用責任に対する意識が薄れ、戦争という重い悲劇に対し、冷淡で人ごとのような姿勢が生じています」

世界中でいのちに対する暴力が横行しているにもかかわらず、無関心のグローバル化は激しさを増し、すべてはスクリーンの先にある「人ごと」のように取り扱われています。教皇が指摘されるように、人工知能の出現によって、その「人ごと」感が強まっています。いのちを奪われているのは、わたしたちの兄弟姉妹です。暴力にさらされているのは、神のたまものであるいのちです。そしてその暴力を生み出しているのは人間であり、それを助長しているのは、わたしたちの無関心です。

4. 「希望の巡礼者」への招き
いのちを生きる希望を多くの人から奪い去り、絶望の淵へと追いやる現実を目の当たりにして、教皇フランシスコは、来年、2025年の聖年のテーマを、「希望の巡礼者」と定めました。聖年を告知する大勅書のタイトルを、聖書の言葉を引用して、「希望は欺かない」(ローマの信徒への手紙5章5節参照)と定めた教皇は、複雑で困難な現実の中にあっても、希望を失うことのないようにと励ましておられます。

教皇は、教会共同体が時のしるしを読み取るように勧め、総合的な人間開発の視点を持ちながら、人間の尊厳がおとしめられるような状況にある人たちに、いのちを生きる希望をもたらす共同体となるよう求めています。そのために、巡礼とは、単に個人の信心の問題なのではなく、共同体としてともに歩む中で、教会が社会にあって希望を生み出し、歩みの中で出会う人々に希望をもたらす存在となる旅路であると指摘されます。

5. 神の定めた秩序の妨害

教皇聖ヨハネ23世の『パーチェム・イン・テリス―地上の平和』の冒頭には、「すべての時代にわたり人々が絶え間なく切望してきた地上の平和は、神の定めた秩序が全面的に尊重されなければ、達成されることも保障されることも」ないと記されています。したがって、神の定めた秩序の実現を妨げる出来事は、そのすべてが平和の実現を阻んでいると教会は考えます。もちろんその筆頭は、神からのたまものであるいのちを暴力的に奪う戦争や紛争であることは間違いありません。紛争など武力の行使という暴力によって故郷を追われ、難民や国内避難民となった多くの人たちの存在から目を背けることはできません。

しかし同時に、神の定めた秩序の実現を阻む状況とは、武力の行使だけにとどまりません。たとえば、世界で多くの人の日常生活を困難にしている、環境破壊に伴う地球温暖化や気候変動の課題です。劇的な環境破壊のために、長年住み慣れた故郷を捨てざるをえない人たちがいます。経済状況の悪化や政治的立場からの迫害など、さまざまな理由で故郷を後にする人たちもいます。経済的に困窮する人たち、人種、信仰、生活のあり方に対する偏見によって差別される人たちもいます。さまざまな形態での人身取引によって、尊厳と自由を奪われている人たちもいます。ほんの一部に過ぎませんが、これらはすべて、神の秩序の実現を妨げている、人間の尊厳をないがしろにする社会の現実です。

6. 平和を求めるシノドスの旅

教会は今、シノドスの旅路をともに歩もうと呼びかけています。わたしたちの歩んでいるシノドスの旅は、そういった困難の中にあって、もっとも弱い立場にある人々を兄弟姉妹として、旅路を歩む仲間とすること求めています。互いに耳を傾け合い、互いに支え合い、ともに歩むことによってのみ、わたしたちは旅の目的地、すなわち御父の望まれる世界の実現へと到達することができます。絶望の淵にある社会の中で、教会は希望の巡礼者であり続けましょう。

わたしたちは過去の過ちに謙遜に学び、その過ちを繰り返さないように努めることができるはずです。幾たびも目撃してきたいのちに対する暴力を止めることができるのは、わたしたち自身です。

平和旬間にあたり、この世界で起こっているいのちに対する暴力を止め、神の望まれる秩序の実現のために、総合的な視点から取り組みを強めていくよう呼びかけます。無関心はいのちを奪います。

2024年年7月19日
日本カトリック司教協議会会長
カトリック東京大司教 菊地 功

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