6月8日「霊的なエリート主義に対抗して」

詩編はわたしたちに隠喩で祈ることを教えている。つまりわたしたちの内に広がるイメージを用いて祈るようにと教える。特に、肉と血とをもって実際に生きたキリストと出会うことで広がる信仰の経験とは、わたしたちの内に豊かなイメージを湧き上がらせるものである。「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」(ヨハネの手紙一1章1節)とある通りにだ。それによって、実に、この世界にある目に見えるもの・手で触れるものは、神が創造したよいものである。詩編が教える祈りを通して、そのことは明確である。いつも隠喩を用いた言葉で話したイエスは、同時に、それを聞いた人々を困惑させるほどに平凡な人だった。イエスは「この男はヨセフの息子ではないか」(ルカ4章22節)と言われた。またイエスの弟子たちは「なぜあなたの先生は罪人たちや徴税人たちと一緒に食事をするのか」(マタイ9章11節)と訊ねられた。正に、そのような時に、ドアがピシャリと閉められるように、全ての霊的なエリート主義者を締め出すのだ。詩編から継続して、イエスもまた隠喩を用いて祈ることを教えたのだ。つまり「あなたがたが祈る時には『父よ』と呼びかけなさい」(ルカ11章2節)と教えたのである。

しかし、その人たちもこうも言った
「あいつはヨセフの息子ではないか。
あいつが若いころから、
俺たちはあいつを知っているではないか。」
―― ルカによる福音書4章22節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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