【断片から見た世界】『告白』を読む 霊と肉との争い

「時は過ぎ去り、わたしはわたし自身のうちで死んでゆく」

アウグスティヌスの問いかけが深まってゆくにつれ、彼の中で「回心=実存そのものの向け変え」の可能性が少しずつリアルなものとなって迫ってきています。

「わたしが、このようなことを語り、そして風向きがさまざまに変わって、わたしの心をかなたこなたへ追いやっている間に、時はすぎ去った。そしてわたしは、主に向き直ることをためらって、あなたのうちに生きることを日一日と延ばしていたが、日々わたし自身のうちに死ぬことは延ばしていなかった……。」

『告白』の核心を理解するためには、ここで言われている「ためらい」の内実を把握する必要があります。今回の記事では、この辺りの事情について見てみることにします。

「至福の生を愛しながら、至福の生を恐れる」

アウグスティヌスの言葉:
「わたしは、至福の生を愛しながら、その本来のありか(神)にある至福の生をおそれ、至福の生から逃れながら、それを求めていた。すなわち、婦人の抱擁を奪われるなら、じつにみじめなことだろうと思って、その弱さをいやしてくださるあなたのあわれみの薬のことは考えなかった。」

この時点のアウグスティヌスにとって、キリスト教の教えはもはや、以前のように不合理なものではなくなってきています。それどころか、探求の道を進めば進むほどに、生きるとはいかなることであるのか、自分自身が存在しているのはなぜなのかといった問いに対して解明が与えられてゆくような感覚も味わっていました。彼にとっては、自分が実存していることの意味が、かつてなくクリアーなものとなってきていたと言うこともできるかもしれません。

それにも関わらず、彼がその道をさらに進んでゆくことをためらっていたのは、上にもあるように、これ以上先に進んでしまうと、「婦人の抱擁」が奪われてしまう恐れがあるように思われたからです。

アウグスティヌスにとっては、回心してキリスト者になることは、女性との性関係を絶って一生を神に捧げ尽くすことを意味していました。4世紀後半の当時にあっても、独身生活を貫くことは必ずしも信仰を持って生きてゆく上での必須条件というわけではありませんでしたが、彼にとってはある時期以降、「真理の道に従って生きる=女性との交わりを断つ」という等式は動かしがたいものとなっていったようです。そして、このことは30歳のアウグスティヌスにとって、この上なく辛い選択を迫るものにほかなりませんでした。彼は10代に恋人を持つようになって以降、性の交わりを持つ相手を欠くことなしにその歳までを過ごしてきていたからです。

「霊と肉との争い」

問い:
「〈愛〉か、〈欲望〉か? Love or Lust?」

アウグスティヌスの場合には、実存の問いはきわめて具体的な、性の問題を通して問われることになりました。しかし、この問いかけにおいては同時に、「回心」なるものをめぐる根源的なアポリアこそが問題になっていたと見ることもできるのではないか。

回心とは、人間がそれまでの生き方から身を引き離して「新しい人間」として生き始めることを意味します。しかし、この「新しい人間」が「新しい人間」にほかならない以上、そのものへの生まれ変わりのプロセスは必然的に、実存的な「産みの苦しみ」の経験を経ずには済ますことができません。「古い人間」は全力を挙げて、生まれつつある「新しい人間」に対して反逆しようと試みます。アウグスティヌスの心はこの「霊と肉との争い」のうちで、責めさいなまれ続けていたと言えるかもしれません。

アウグスティヌスにおけるこの葛藤は他の多くの人々の場合と同様、過酷で苦しみに満ちたものとならざるをえませんでした。しかし、このことは、人間存在が闘うことのできる最も根底的な闘いとは、各人における「内的な苦闘」にほかならないという実存論的な事実を、改めて照らし出すものであると言えるのではないか。

「〈愛〉か、〈欲望〉か?」という問いはおそらく、「あなたは自分自身に与えられた〈使命〉を果たすために生きるのか、それとも、自分の〈欲望〉を満たすために生きるのか?」という問いに根底のところで繋がっています。〈愛〉は存在へと通じていますが、〈欲望〉はそれと気づかないうちに、人間を無の方へと突き落とさずにはいません。「全てのことは空しいのではないか」「わたしは生まれてくるべきではなかったのではないか」という問いかけが出てくる根は、恐ろしく深いのではないか。生きることに意味を持たせようとする実存の投企は、それが暗いもの、根の深いものと格闘しようと試みれば試みるほど、容赦なく、予断を許さないものになってゆきます。哲学の道を行くアウグスティヌスは、「真実の幸福」にたどり着きたいと願っていました。その場所に到達するために、彼はこれから「罪」の、すなわち、自分自身の「実存の空虚」の問題と格闘しつつ、出口を求めてもがき苦しまなければなりません。

おわりに

「わたしはあの時に死んでいたはずなのに、まだこうして生きている。」「新しい人間」として生き始める回心の出来事とはおそらく、死んでいたはずの者が新たに命を与えられることになる「救い」の出来事でもあるのではないか。私たちとしては引き続き、アウグスティヌスの探求が歩んだ道のりをたどり直してゆくことにしたいと思います。

[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]

 






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