5月31日 「危険な未知の世界へ」

 「聖餐式」とは何だろうか ―― こう問われた時に、多くの言葉を使ってその意味を定義しても、あまり意味がない。聖餐式について考えて、その神秘の深みに入り、そのを味わい「当たり前の無難なもの」と取って「危険な未知への世界」へと押し込む ―― そうしたことにこそ、意味があるのだ。キリスト教は「主の聖餐式」において極めて単純な言葉を使う。 ―― 「これはわたしの体である。これはわたしの血潮である。」という言葉だ。その言葉が語られる時、わたしたちは愛の深みに入り込み、何にも束縛されないものや、愛や、信仰に向かって危険な歩みを踏み出すのだ。聖餐式の言葉は説明しない。その言葉は知らなかったことを明らかにし、その方向性を示し、その言葉はわたしたちの心を次のステップへと誘う。

わたしはパンである。
―― 生けるパンである!
―― 天から降ってきた生けるパンだ。
このパンを食べる者は誰でも生きる ―― 永遠に!
世界が生きて行けるように、
わたしが提供するパンは
  この生身のわたし自身である。
―― ヨハネによる福音書6章51節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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