ある時、先輩の牧師と一緒に拘置所を訪れた。会いに行くのは牧師の地元の後輩(以下、Aさん)。諸般の事情で取り調べを受けているとのことであった。
いざ面会が始まり、彼に必要なものを牧師が確認し、他愛のない話を進める中、突然「Aさん、この人に自分の人生変えられるのか聞いてみて」と牧師が私に話を振ってきた。
実はこの「人生が変わるか否か」というやり取りはすでに何度も彼と牧師がしているものだった。なんでこんな無茶振りを私に振ってくるのだろうか。そう思いながら椅子を深く座り直した。
Aさんはどこか恥ずかしそうに「変われると思いますか」と私へ尋ねてくださった。正直、私は拘置所も初めてだし、これから起訴される人に出会ったこともない。加えてその方の半生も何も知らない。だから的確なアドバイスなど当然出来るはずもなかった。
一方で、私は一人のキリスト者として、すべての人の人生において確信しているものがある。それは聖書のこの言葉だ。
わたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたが知らない理解を超えた大いなることを、あなたに告げよう。(エレミヤ書33章3節)
またこの時、ボンヘッファーの言葉も同時に思い出した。
助けは、われわれに救いと義と許しと祝福を与えてくださるイエス・キリストの言葉において、かつて来たし、また日々新たに来るであろう。(D・ボンヘッファー、森野善右衛門 訳『共に生きる生活』新教出版社)
神は人間の理解を超えた計画を持っている。またどんな道を歩もうが、途中で脱線しようが、最後にその人生を整え、成長させてくれるのだ。そんな確信が私にはあった。
しかしこの時ふと、「この言葉は逆に失礼ではないか」と思った。なぜなら「神様がおっしゃっているので!」なんぞのセリフは人によれば非現実的であるし、別の人にとってはただの逃げ道にしか聞こえない。だが、この時気づかされたことは私にはこれしかないということであった。
腹をくくり、私ははっきりとAさんに伝えた。「変われます」。すると気丈に振る舞っていた彼が突然、大粒の涙を流し始めたのであった。おそらく今日、彼が聞きたかった言葉はこれだったのだろう。
「何度も俺こけてるんですよ? それでも変われるのかい?」。涙を流し、嗚咽しながらAさんは私に問いかけてこられた。この時私は、十字架の下から逃げたペテロをイエスが三度「私を愛しているか」と尋ねた場面を思い出した(ヨハネによる福音書21章15~17節)。何度過ちを繰り返そうが、それを超えてイエスは必ず私たちの前に現れる。どんな道を歩もうが、神は必ず私たちの隣を一緒に歩かれる。そしてその人が神を知らなかったとしても、たとえどれほど裏切ってきたとしても、神は私たちを知り、また信じ続けているのだ。
私はAさんに「何度も失敗しているからこそ、次は立ち直れます」とお伝えした。こんなことは一般的に考えて失礼である。お前になんの確信があると言われれば何もない。だがイエスはそう言っているのだ。するとAさんは「そうか……」と深く頷いてくれた。
はっきり言ってしまうと聖書を読もうが神を信じようが、最悪の事態は免れないし、生き方が突然変わることもない。ただ一つ言えることはある。それは、イエスは今日も誰をも一人にしない。そしてともに生きようと願っている。
貧しい人も、罪人も、病の人も、悲しむ人も、イエスにとっては弱者ではなく友だった。Aさんは犯罪を犯した。私は犯罪を犯していない。しかし、それは日本という国で誰かが作ったルールに従ったかどうかであり、私もまた見えないところで人を傷つけ、自分の心の貧しさに嘆き悲しむ者だ。だけどどのような人間にもイエスは友として接し、今日も新しい生き方へと呼んでくれているのだと思う。
その日の夜、ふとイエスの声が聞こえた気がした。
もしあなたが地獄の淵まで行きたいのなら、私もともに歩ませてくれないか。
何度も失敗し、ボロボロになり、尊厳も家族も仕事もすべて失った。
だが諦めないでほしい。あなたには一つだけ失っていないものがある。
それはあなたが捨てようと思ってもできないものである。
それは私だ。私がともにいるということである。
例えあなたがどんな姿であろうと、必ず私が支える。
例えあなたがどこへ行こうが私はあなたを見捨てない。
だから今日も、私とともに生きようではないか。
そして次の日の朝、ボンヘッファーの書物を開くとこう記されていた。
彼(キリスト)は、どこにいるのか。彼は、「私ノタメニ」立っているのである。彼は、私が立つべきだが立てぬ所に、私の代わりに立っている。(D・ボンヘッファー 著/村上伸 訳『キリスト論』新教出版社)
イエスってちょっとかっこいいよね。そんな救い主を、今日も信じている。
*プライバシーに配慮し、エピソードは一部改変しています。
ふくしま・しんたろう 牧師を志す伝道師。大阪生まれ。研究テーマはボンヘッファーで、2020年に「D・ボンヘッファーによる『服従』思想について––その起点と神学をめぐって」で優秀卒業研究賞。またこれまで屋外学童や刑務所クリスマス礼拝などの運営に携わる。同志社大学神学部で学んだ弟とともに、教団・教派の垣根を超えたエキュメニカル運動と社会で生きづらさを覚える人たちへの支援について日夜議論している。将来の夢は学童期の子どもたちへの支援と、ドイツの教会での牧師。趣味はヴァイオリン演奏とアイドル(つばきファクトリー)の応援。