キリスト教信仰を真正面から取り上げた小説『八色(やいろ)ヨハネ先生』が、第2回「Reライフ文学賞」長編部門最優秀賞を受賞した。同賞は朝日新聞と文芸社によって創設された文学賞である(特別選考委員=内館牧子氏)。
同書の主人公は聖書学を研究する神学部教授。話の大部分を占めるのは、家族を喪った彼の悲嘆をめぐる記述である。主人公は、悲しみ、孤独を感じ、後悔し、幻を見、苦しむ。そして次第に、全知全能の創造主である神はなぜ私を苦しめるのかという煩悶へと至る。この煩悶は、神学用語で「神義論」と呼ばれる問題で、神学におけるビッグイシューである。この他にも同書には、聖書やキリスト教をめぐる描写が随所に盛り込まれている。彼と神との関係は思わぬ形で展開していくのだが――。
著者の三宅威仁(たけひと)氏は同志社大学神学部の現役教員であり、宗教哲学や宗教社会学の科目や教職課程科目を担当している。本書に込められたメッセージを深掘りするとともに、三宅氏の人となりに迫るべく、教え子たちによる座談会を開催した。
【出席者】*敬称略
・三宅威仁(『八色ヨハネ先生』著者、同志社大学教授)
・大阿久佳乃(神学部4年)
・金子裕史郎(大学院1年)
・佐々木結(大学院4年)
・澤田果歩(大学院2年)
・田中宗彰(神学部1年)
・長島侑以(神学部3年)
・西村典子(文学部3年)
・原啓人(大学院1年)
・司会:後宮嗣(同志社神学研究科卒、世光教会伝道師、株式会社グレープヴァイン代表取締役社長)
「読み方に正解はない」
〝聖書を読むことは隣人愛の実践〟
司会 このたびはおめでとうございます。キリスト教界で華やかなニュースが少ないので、非常にうれしく思っております。まずは三宅さんに今回の執筆・受賞・出版について、簡単に話していただこうと思います。
三宅 最初に申し上げたいことは、これは小説ですので正しい読み方とか解釈があるわけではないということです。好きなように読んでいただいて、面白かったとかつまらなかったとか思っていただいたら結構です。論文と違うのだから読み方に正解はないということです。
執筆の動機は非常に個人的なものです。私は今年の誕生日が来ると67歳になります。書いた時は64か65ぐらいだと思いますけれども、間もなく定年退職。それどころか、もうすぐ死ぬかもと思っています。私ぐらいの年になってくると――皆さんもそうなると思うんですが――自分の人生がこれで良かったのか、やり残したことはないかと考えるものでして、私は学生の時は小説家になりたかったんです。1、2作書いて文芸雑誌に送ったこともあり、第一選考は通過して50人ぐらいの中に名前がありました――いまだにその雑誌を持っていまして、嬉しかった思い出を50年以上持ち続けています。でもそこまでで、それ以上は行きませんでした。1、2作書いてみたら自分に才能があるかどうか分かりますから、自分はプロの作家にはなれないと思ったので、なんとなく大学院に行って、なんとなく母校に拾ってもらって教授になっています。
歳をとって、やり残したことはないかと考えるようになり、もう1回小説という形で自分が常日ごろ心に考えていることを書いてみようと思いました。ちょうどコロナ禍があって、同世代の人が亡くなるということを経験し、これは自分もいつ死ぬか分からないと思いました。やれることをやれるうちにやっておこうという気がますます強くなり、コロナ禍で授業も全部なくなって、自宅待機になりましたから、その時に結構書いていましたね。
最も苦労したのは、主人公の家族について書くことでした。私は独身なので分からないんです。申し訳ないからポエムみたいなものを挿入してごまかしているという感じです。
司会 ありがとうございます。それではみなさん、順に自己紹介と感想をお願いします。
長島 神学部3回生の長島侑以です。研究しているのは、能力主義・資本主義社会を聖書の立場から批判してみたり、その中で宗教科教育はどうあるべきかということです。本の感想は、読んでいる時、文章がずーっと三宅先生の声で脳内再生されている気がしたということです。それから、私がこの本の中で一番好きなのは、悪夢みたいな幻像がひたすら続く場面の叙述で、すごく印象的で、ちょっと安っぽい表現だけどオシャレで、共感もしました。
三宅 ありがとうございます。自分で一番うまく書けたと思っているのが、その悪夢というか「ホラー小説」の部分で、この小説にはたくさん欠点はありますが、自画自賛できます。特に、一番素晴らしい文章だと自分で思っているのは、妻と娘が砂の柱になってしまうところです。
大阿久 神学部4回生の大阿久佳乃です。宗教社会学の授業やフロイトを読む演習でお世話になっています。今、大学では北米先住民の研究をしていて、特に北米先住民のスピリチュアリティが核廃棄物処理場の場所を決める時の意見形成にどう影響を及ぼしているのかというようなことです。それから、私自身も本を出していただいたり、書く仕事をしています。なので今日、「神学部の文芸要員」として呼ばれました。感想ですが、言葉の使い方に三宅先生をすごく感じました。基本的に堅い言葉なんですけど、柔らかい言葉が混じるんです。そして、すべてが架空のことではなく、自身の経験とか人生から取り出して物語の中に入れるという書き方をしてるので、これは三宅先生にしか書けないものだなと感じました。
西村 文学部国文学科3回生の西村典子です。キリスト教文学の研究をしようとしていて、今学期のゼミでは太宰治の『駈込み訴え』について、卒論は迷っているけれど、遠藤周作あたりにするかなと思っています。感想は、「先生、授業でこれ言ってはったな」ということがたくさん出てきて、それがすごく面白くて、買ったその日に全部読み終わってしまいました。
三宅 相当、自分のことも出していますからね。
佐々木 佐々木結です。後期課程の2年生です。日本のキリスト教の歴史を研究しています。小説についてですが、これは八色先生の話ではなく三宅先生ご自身の話でもあるのではないかと思いました。特に、八色先生の片付けられないエピソードと捨てられない理由についての説明は、自身の気持ちを八色先生に代弁させているのではないかと感じ、クスっと笑いながら面白く読みました。
それから、全体を通して細かな設定にこだわって書かれていることも伝わってきました。例えば、留学中の八色先生が晩年のフリッツ・ライナーが指揮するシカゴ交響楽団の演奏を聞いたという記述がありますが、調べてみると、ライナーの晩年と八色先生の留学していたであろう時期はちょうど重なるんです。こういう本筋とは関係ないような細部にまでこだわって書かれた小説で、そういった点を調べながら読むのも非常に面白かったです。
三宅 まず、主人公の年譜を作りました。何年生まれ、何年大学卒業、何年留学、何年に子どもが生まれ……という具合に。それに合わせて書きました。
原 原啓人です。修士1年で、三宅先生には教職科目でお世話になっています。専攻は新約聖書学で、学部の時には史的イエスを、大学院ではヤコブの手紙を研究しています。小説の感想ですが、読めば読むほど技巧が伝わってくるという印象です。八色先生の娘の「久美」の由来は、イエスが、亡くなった娘に「タリタ、クミ(クム)」(娘よ、起きなさい)と言って生き返らせたマルコによる福音書5章の記述であると書かれていますが、なぜ主人公の苗字が「八色」なのかは小説の中では説明されていない。
でも、この娘の父親は会堂司「ヤイロ」なんですね。主人公の苗字がここから取られたのは明白です。非常に巧みで驚かされました。
三宅 ヤコブ書を研究しているということに感銘を受けました。ルターはヤコブ書のことを「藁(わら)の書」と言いましたが、それはヤコブ書を行為義認の書と考えたからです。しかし本当は違うんですね。本当の信仰ならば必ず行為に現れるというのが、ヤコブ書の言いたいことですよね。信仰義認を否定しているのではない。まさに八色先生も私もそうなんですが、聖書のことを勉強してきたけれど、実践してきたかというとそうではない。そのことへの反省みたいなことも小説に書いたつもりです。この小説は、聖書を読むということは隣人愛を実践することなのだということが長い時間をかけてようやく分かった先生の物語です。だからこの小説は、ヤコブ書のメッセージに通じるとも言えます。(次号につづく)