ムスリムにとって最初の預言者はアーダム(アダム)であり、アダムはイコール人間だから「人間はムスリムとして生まれてくる」と前回書いたが、ここからムスリム特有の心情を初めて理解することができるようになった。
例えば、そのころ米国人のキリスト教徒との結婚を決意したケニア人のムスリム女性が、結婚を機にキリスト教に改宗したが、イスラム法では「棄教」は「死刑」になるため米国に亡命したというニュースが報じられた。驚いた私は日本ムスリム協会の理事長に、文書で「棄教」の罰則が「死刑」というのは本当かと問い合わせをしたところ、『イスラーム辞典』(岩波書店)の「棄教」の項目のコピーとともに以下のような回答を受け取った。
「同封の辞典の記述にあるように、イスラム法では棄教には極刑(死刑)をもって臨むというのは事実です。しかし、私の知る限り日本でこれが実行されたことはありません。イスラム教徒になったにもかかわらず、その信仰を捨てるということがいかに重大事かということを認識してもらうために、このような罰則があるのだと認識しています」
この説明だけでは納得できなかったが、改めて「人間はムスリムとして生まれてくる」というイスラム教の人間理解と照らし合わせると、棄教にそこまで厳しい態度をとる心情は、少なくとも理解できる気がする(もちろん賛同はできないが)。
イスラム教徒にとって、ムスリムであるとは神が創造された時の人間そのものであることを意味する。実は誰もがムスリムとして生まれているのだが、かわいそうなことに日本人は多神教や偶像礼拝の横行する社会文化に目をくらまされ神(アラー)を見失い、偶像や動植物、天体などの自然物を拝んでいる。キリスト教徒はアラーを拝んではいるが、ムハンマドを預言者とは認めないし、イエスを神の子だなどと言っている。偶像崇拝者よりはましだが、まだ完全とは言えない。ムスリムこそが「真の人間」である。なのにそれを放棄して、人間以下に身を落とすことは断じて認められないということなのだ。
イスラム教は他宗教に対して寛容で、信仰の自由を保障している。しかし前述の『イスラーム辞典』の「棄教」の項目にも明記されているが、その寛容さはイスラム教の外の人たちに対するもので、イスラム共同体の成員(信者)に対しては不寛容な立場を採っている。他宗教への改宗の道は原理的に閉ざされているからだ。
翻ってキリスト教はどうであろうか。同じ旧約聖書を経典としながらも、人間観はまったく異なる。キリスト教の理解では人間はキリスト教徒として生まれてくるのではなく、「罪人」として生まれてくる。すべての人が、キリストの十字架による罪の贖いと赦しを必要とする「罪人」である。したがって、洗礼を受けてキリスト教徒になるということは新たに生まれ変わること(ボーン・アゲイン)である。このように人間理解はまったく異なるのだが「棄教」や「改宗」についてはどうだろうか。
「ひとたび光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力を味わいながら、後に堕落した者たちは、再び悔い改めへと立ち帰ることはできません。神の子を自分でまたもや十字架につけ、さらし者にしているからです」(ヘブライ人への手紙6章4~6節)とあるので、およそ「寛容」とは遠いと言わざるを得ない。「洗礼」はサクラメント(聖礼典)であるから、一度これを受けたら取り消しはきかないのだ。この点は、宗教リテラシー的には問題とならないだろうか。(つづく)
川島堅二(東北学院大学教授)
かわしま・けんじ 1958年東京生まれ。東京神学大学、東京大学大学院、ドイツ・キール大学で神学、宗教学を学ぶ。博士(文学)、日本基督教団正教師。10年間の牧会生活を経て、恵泉女学園大学教授・学長・法人理事、農村伝道神学校教師などを歴任。