「太陽の比喩」における議論は、「存在」の問題にどのように関わるか
プラトンの「太陽の比喩」についての考察も、そろそろ大詰めに差しかかりつつあります。
「『あなたのお話ですと、それ(〈善〉)はまことに、はかりしれぬ美しさのものですね』と彼は言った、『知識と真理を提供するものでありながら、それ自身は美しさにおいてそれらを越えるものだとすれば。よもやあなたは、それによって快楽のことをおっしゃっているわけではないでしょうからね』『言葉をつつしみたまえ!』とぼくは言った、『それよりも次のようにして、それの似像となるものの考察を、さらに一歩進めてもらいたいのだ……。』」
『国家』のこの箇所においてプラトンが提出している論点は、2022年の現在において「存在」の問題について考える上でも、無視することのできない論点を提起しているのではないか。2022年最後となる今回の記事では、『告白』におけるアウグスティヌスの探求の核心を理解するためにも、この点をめぐって考えてみることにします。
「存在の根源」
プラトンによる問題提起:
〈善〉は人間の心、あるいは魂に認識することの可能性を与えているのみならず、世界のあらゆる事物に対して、存在するということそのものをも与えているのではないか?
プラトンの主張するところを再構成してみることにします。改めて考えてみるならば、太陽は光を発することによって、私たちにものが見えるようにしてくれているだけではありません。動物だけでなく、植物や微生物も含めて、この地上の世界に生きているもののうちで、太陽の恩恵に属していないものはいません。この意味からすると、太陽はあたかも、地上のものの命の根源でもあるかのような地位を占めていると見ることもできそうです。
この太陽のあり方は実は、〈善〉なるもののあり方を理解するための類比として役立つものなのであると、プラトンは言います。〈善〉とはまさしくこの世界に存在するあらゆるものがそこからその「存在する」ということを受け取っているところの、「存在の根源」にほかならないと言えるのではないか。
「それなら同様にして、認識の対象となるもろもろのものにとっても、ただその認識されるということが、〈善〉によって確保されるだけでなく、さらに、あるということ・その実在性もまた、〈善〉によってこそ、それらのものにそなわるようになるのだと言わなければならない。」『国家』のこの言葉は、プラトンにおけるこの〈善〉のあり方が新プラトン主義における〈一者〉をめぐる思索へと流れ込んでゆき、次いでアウグスティヌスを始めとするキリスト教の哲学によって、それが「存在の根源」そのものであるところの〈神〉をめぐる思索として受け継がれてゆくことを考える時には、哲学の歴史にとってはまさしく運命的なものであったと見ることもできるのではないだろうか。
「根源」の近くにとどまりながら生きるという可能性
問い:
私たちが生きているこの現代において、「存在の根源」の近くにとどまるような生き方が、なおも可能だろうか?
哲学の歴史においては、カントの決定的な「批判」の哲学が現れて以降、思索において「存在の根源」へと遡ってゆく道は、少なくともそれ以前のような仕方では不可能になりました。その結果、哲学の営みには「私たちはなぜ存在しているのか?」という問いに対して論証や証明という仕方では答えを提示することができなくなって後、現在に至っています(「形而上学の徹底的な破壊者」としての、カント哲学)。
「私たちにはもはや、私たち自身がなぜ存在しているのか、答えるすべを持っていない。私たち人間は自分自身が存在している理由が分からないまま、あたかもこの世界の内に投げ込まれているかのようにして存在している。」現代の哲学が「被投性(投げ込まれていること)」のような概念にたどり着かなければならなかったことには、事柄そのもののあり方に基づく深い必然性があることも確かです。私たち人間の思考には、「存在の根源」のようなものがあることを論証したり、証明したりすることは不可能です。こうした論証や証明がかつてと同じような仕方で哲学の営みに戻ってくることは、決してないものと思われます。
しかし、どうなのだろうか。そのことは果たして、哲学にとって「存在の根源」のようなものについて考えることそのものまでもが不可能になったことをも意味するのだろうか。
「およそありとあらゆる全てのものは、万物の根源に位置しているところの〈善〉によってこそ存在している。存在する個々の存在者を超えて〈存在〉そのものが、それぞれのあるものを超えて、〈ある〉ことそのものがある。この〈ある〉ことそのものこそが、かのもの、全てのものの「彼方」に位置する〈善〉に他ならない。今ここでこのように思考している私たち自身もまた、この〈善〉のもとから流れ出てきたことによって、あるいは、〈善〉によって創られたことによってこそ存在しているのである。」プラトンが「太陽の比喩」においてはじめてその方向性を提示し、その後の長い時間をかけて彫琢されていったこのヴィジョンは、すでに述べたように、哲学の歴史において運命的な意味を持つものでしたが、このヴィジョンの示唆するところは2022年の現在においてもなお、哲学の道を行く人間に対して一つの問いを提起するものであると言えるのではないか。すなわち、この問いこそは「私たちはなぜ存在しているのか?」という問いに他ならないのであって、この問い、根底のところにおいてはどこまでも単純なものであるこの問いに答えることができない限り、私たち人間存在には、「生きることの意味」をめぐる問いに対してもまた、十全な答えを出すことはできないのではないだろうか。これらの問題に対しては容易な答えがありえないことは間違いなさそうですが、プラトンを始めとする思索者たちが追い求め続けた「存在の根源」をめぐる探求には少なくとも、私たちが生きているこの現代においても耳を傾けるべきものがあることもまた確かなのではないかと思われます。
おわりに
19世紀ドイツの詩人であるヘルダーリンは「根源の近くに住むものは、その場所を去りがたい」との言葉を残していますが、21世紀の現在を生きている私たちにも、「根源」を望み見つつ、その近くに住むような生き方は果たして可能なのでしょうか。以上のようなことをも念頭に置きつつ、私たちとしては引き続き、『告白』におけるアウグスティヌスの探求を経験しなおすための準備を進めてゆくことにしたいと思います。
[2022年の記事は、今回で終わりになります。今年は長い探求にお付き合いいただいて、本当にありがとうございました。来年にはプラトンの『国家』からアウグスティヌスの『告白』に戻りつつ、読解を最後まで進めることにしたいと思います。今年最後の一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]