〈善〉:人間存在にとっての「最大の学業」
プラトンは『国家』の第六巻において〈善〉のことを、人間が学ぶべきものの中で最大のものとして語っています。
「どっちみち君は、たしかにそれを一度ならず聞いたことがあるのだが、いまはそれに気づかないのか、あるいは、またしても、しつこくつかまえてぼくを困らせてやろうという魂胆なのか、どちらかなのだ。ぼくの思うには、きっと後者のほうだろう。げんに君は、〈善〉の実相こそは学ぶべき最大のものであるということは、何度も聞いているはずだからね。この〈善〉の実相がつけ加わってはじめて、正しい事柄もその他の事柄も、有用・有益なものとなるのだ、と……。」
それではこの「学ぶべき最大のもの」であるところの〈善〉とは果たして、いかなる性質を持つものなのでしょうか。今回からの記事では、前回までの「洞窟の比喩」に続いて「太陽の比喩」を検討しつつ、この点について探ってみることにします。
認識の根源:「太陽の比喩」とは
『国家』508B〜C:
「『それでは』とぼくは言った、『ぼくが〈善〉の子供であると言っていたのは、この太陽のことなのだと理解してくれたまえ。〈善〉はこれを、自分と類比的なものとして生み出したのだ。すなわち、思惟によって知られる世界において、〈善〉が〈知るもの〉と〈知られるもの〉に対してもつ関係は、見られる世界において、太陽が〈見るもの〉と〈見られるもの〉に対してもつ関係とちょうど同じなのだ……。』」
「太陽の比喩」においてプラトンは、目によってものを見ることの考察を通して、認識すること、知ることの本質に迫ろうとします。
私たち人間はふだん、当たり前のこととして目でものを見、そうすることで日々の生活を送っていますが、改めて考えてみるならば、視覚なるものは「光」の現前によってはじめて成り立っています。すなわち、人間には暗闇の中でものを見ることはできず、見ることを可能にする「光」が与えられている場所と時においてこそ、はじめて見ることも可能になるわけです。
この一見するとどうということもない事実は、認識論的な観点からすると極めて重要な意味と価値を持っています。私たちは、見ることについて改めてことさらに考える場合であっても、大抵の場合には見る人間(認識主体)と見られるもの(客観的事物)を考えることだけで事足れりとしていますが、本当はそこに第三の次元が付け加わらなければならない。その第三の次元こそが「光」の次元であり、太陽とは、まさしくこの「光」なるものを地上に住むものすべてに与える存在にほかならないと言えます。
これから詳しく見てゆくことになりますが、プラトンは、〈善〉とはこの太陽にも似た働きを認識において果たすものであると語っています。すなわち、私たち人間存在の認識は、心あるいは魂に与えられている内在的な能力によってのみ成り立つのではなく、〈善〉から与えられる「見えざる光」の存在を通してこそ、はじめてそれとして成立するものである。このことは、〈善〉とは、私たちがそれと気づくことのないままに認識すること、知ることを可能にしているところの「認識の根源」にほかならないということを意味します。
〈光〉への聴従:「太陽の比喩」について考えるために
「認識の根源」としての〈善〉のあり方について考えるための土台として、今回の記事ではまず、次の論点を押さえておくことにします。
論点:
人間が「真理」の現象に向かって開かれているということは、哲学の探求がことさらに問題とするべき根源的な実存論的事実にほかならない。
根本のところから、改めて考えてみます。私たち人間はさまざまなものに関わりを持ちながら日々の生活を送り、そのことを通して、大地や空、あるいはそれらからなる〈世界〉のうちに住み着いています。私たちはまた、そうした私たち自身の世界内存在のあり方を言葉にして言い表し、語り、伝達し合うのと共に、自然科学や、文学を始めとするさまざまな芸術作品、そして、哲学の言葉といったものを形づくってもいます。こうしたことはすべて、広い意味での「真理」の現象にほかなりません。開示すること、あるいは「覆いをとって発見すること」としての真理の現象は人間が行うあらゆる営みに行き渡っているのであって、その意味では、人間存在とはその本質からして「真理」のうちで存在するものであると言わなければなりません(cf.1927年に出版された『存在と時間』においてマルティン・ハイデガーは、「現存在は真理のうちで存在している」という、2022年の現在においてもなお問題提起の力を失ってはいないテーゼを提出している)。
ところで、哲学の歴史において、このような「真理への開かれ」は古来から現代に至るまで、一貫して「光」の形象を通して語られてきました。プラトンが『国家』において語っている「太陽の比喩」はこの点からすると、哲学の営みが問題とするべき根源的な事柄を、まさしく根源的というほかない喩え(「光」の源としての「太陽」)を通して語り出そうとする試みであると言うことができるのではないか。
〈光〉としての真理の現象はそのあまりに根底的な性格のゆえに、かえってそれそのものとしては忘却されてゆく傾向を抱えていますが、哲学の探求はこの現象をその忘却からあえて明るみの元へともたらし、語り出しつつ言葉へともたらそうとします。それは、生々流転してゆくこの世の営みが人間を「忘却の暗闇」へ引き留めようとすることが確かであるとしても、人間存在には、この暗闇に抗って〈光〉の方へと向かってゆく意志が宿りうることもまた確かだからです。哲学の営みは生のまなざしそれ自体を極限にまで集中させつつ、認識することそのものへとことさらに向き直ることのうちで、「真理」の現象を貫いて働いている〈光〉なるものへの聴従を根源的な仕方で取り戻すこととして、「真理」との関わりを実存のうちで改めて引き受け直すこととして生起します。〈光〉を通して「かたち」そのものを目にすること、〈イデア〉を観照することは、かくも根底的な事柄として哲学の営みそのもののうちに住み着いている。プラトンの「太陽の比喩」の意味するところについて考えてゆくにあたっては、とりあえずこの点を確認しておく必要がありそうです。
おわりに
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と信仰の書は語っていますが、この言葉の意味するところを本当の意味で理解するためには、私たち人間にはまさしく哲学の営みこそが必要になってくるのではないだろうか。ともあれ、「光」と「太陽」という形象についてはなお、見ておくべき論点がいくつも残されています。プラトン哲学の根源に位置する〈善〉のあり方に迫り、新プラトン主義の哲学にコミットしていったアウグスティヌスが探求のうちでたどり着いたものと出会い直す準備を整えるという意味でも、私たちとしては引き続き、「太陽の比喩」のもとにとどまりながら考え続けてみることにします。
[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]