主の御名をあがめます。
皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は新約聖書、コリント人への手紙第1の1章です。よろしくどうぞ。
コリント人への手紙第一 1章21節
神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
神様が本当に人間にご自身のことを信じてもらいたいなら、聖書なんか読まなくても、教会なんか行かなくても、神様のことが分かるようにすればよかったのに。神様が人間をつくったんだから、そういう風につくることもできたはずなのに。
・・・そんな風に思うことが、正直なところクリスチャンとして生きているとあります。みんながもっとすんなり神様や聖書を信じてくれたら、伝道も牧会ももっとずっと楽なのに。でも聖書にはこのように、人間が自分の知恵や経験で神様のことを知ることができないこと自体が、神様の知恵によるのだと書いてあります。人間は聖書や教会を通してでなければ、神様を知ることができないように神様によって設計されているということです。
どうして神様はそんな風に人間を設計したんでしょう。それは人間が信仰についても、自分を誇ることがないようにだと思います。もし人間が自分自身の知恵や経験によって信仰に至ることができたとしたら、「俺は自分の努力によって信仰に至った偉い人間なんだ」と、自らを誇る人がたくさん出てくることでしょう。「神様を信じる自分は、他の人よりも賢くて尊い存在なんだ!」と威張る人も出てくることでしょう。
ですから神様は、神様を信じるということについて、人間が自分の力だけではできないということにしたんです。クリスチャンの信仰というのは、自分の努力で至るものではなく、あくまで神様の恵みと愛によって与えられるものなんです。たとえるなら信仰は「非売品のプレゼント」です。自分の努力でいくらお金を貯めても手に入れることができず、ただ神様に選ばれた人だけが手にすることのできるプレゼントです。
クリスチャンというのは「信仰に至った人」とか「信仰を得た人」ではなく、とことんまで「信仰を与えられた人」なんです。自分の力で得たものなら、それを捨てることもできますが、与えられたものを捨てるのは難しいものです。なぜなら捨てようとしても与えられ続けるからです。クリスチャンがクリスチャンであり続けるのは、自分の意思ではなく、神様の意思によるんです。自分のこの信仰は、自分自身によって守られているのではなく、神様によって守られているんです。
クリスチャンをクリスチャンたらしめているのは、クリスチャン自身ではなく神様なんです。そう考えると、「信仰を守らねば!」というプレッシャーから解放されます。「こんな自分がクリスチャンであって良いのだろうか」なんて迷いからも解放されます。肩の力を抜いても、クリスチャンがクリスチャンであることは変わりません。がんばらなくていいんです。信仰は神様からのプレゼントです。プレゼントをもらうのに努力が必要なら、それはもはやプレゼントとは言えません。プレゼントはただ受け取って喜べばいいものですし、贈る方だってそれが一番嬉しいんです。それではまた明日。
主にありて。
MAROでした。
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