お金だけでは救われない 【発達障害クリスチャンのつぶやき】

UnsplashPeter Herrmannが撮影した写真

私の元職場である学校に、ある親しい先輩の先生がいました。賢いけれどもいわゆる「ダメ教員」的なレッテルをはられている人でした。陽気な先生で、物知りでした。バツイチで子どもさんはいませんでした。あだ名は「財閥」で、裕福な家の生まれのようでした。クリスチャンでしたが、教会に多額の献金をなさっているようでした。あるとき、お母様を亡くされました。遺品をいただいたりしたものです。そしてその先生は、私が休職中のおよそ2年前に、電車に飛び込んで自死されました。私が知ったのはその半年後くらいでしたが、ショックでした。「あの先生が生きておられたら」と何度思ったことでしょう。

もちろん自死の原因というものは、他者にはわかりません。直接の原因は、「仕事を苦にして」とのことでしたが、それもどこまで本当なのかわかりません。でも、私には「その先生はひとりぼっちだった」ということと、「お金は助けてくれない」ということが強烈な印象として残ったのです。

私は事務員でした。総務の経験も1年ほどあります。私立学校でしたから、年金や健康保険は「私学共済」というものでした。私学の職員は公務員に準ずる扱いだったということは後から知りました。当時はただわけもわからず、保険証を発行したり、いろいろな手続きに忙殺されていましたが、自分が「助けてもらう側」となり、あらためて「社会保障」というものを詳しく知ることになりました。

自分が助けてもらう身になって、世の中には「福祉」というものがあることを知りました。助けてくれる人やモノは思ったよりあるのです。医療機関で保険証を見せると医療費が3割になるのも多くの人が使っている権利でしょう。私は障害年金ももらえたらもらおうと思っていますし、それもダメなら生活保護をと考えていますが、それらも社会保障であるわけです。それらを知るにつけ、さまざまな制度の矛盾などにも気づかされますが、とにかく「困ったら助けてもらえる」仕組みになっているわけです。

そして、これらの権利のほとんどは「お金」であることにも気づかされます。「年金」もお金ですし、「医療費3割負担」もお金です。私の持っている「交通費無料」「医療費無料」の権利もお金ですし、生活保護もお金です。しかし、「ひとりぼっち」というのは、お金では解決されないわけです。これはもしかしたら「社会保障」というもののすごく大きな欠落かもしれない、とも思わされます。

先述の通り、お金がたくさんあってもひとりぼっちになって自死された人がいたわけです。私のある友人は、一人暮らしの経験があり、「日曜しか話す人がいない生活はつらかった」と言っていました(その人もクリスチャンで、日曜だけは教会で話す人がいたのです)。私も「最大の敵は『孤独』ではなかろうか」と思っていた矢先に聞いた話でした。人には「相手してくれる人」が必要です。

聖書に出てくる盲人バルティマイは、イエスから「何をしてほしいのか」と聞かれて「先生、また見えるようになることです」と答えています。つまり、「以前は見えていた人」なのです。もしかしたら、そのころは家も仕事もあったかもしれず、家族もいたかもしれないのです。それが、なんらかの事情で目が見えなくなり、家や仕事、そして家族を失い、道ばたで物乞いをしていた可能性がある。彼はいまなら障害者手帳をもらえているはずであり、生活保護も受けることができているでしょう。でも、「イエスと出会う」というものはお金では得られません。盲人バルティマイの課題も、実はお金ではなく「ひとりぼっち」だったのかもしれません。「盲人はすぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」と書いてあります。彼にとってイエスに出会うというのが決定的であったことがうかがわれます。

現代でも、「イエスと出会って救われた」人はたくさんいます。私もそうです。現在、お金には困っていますが、「出会い」によって救われています。社会保障も大事ですけど、お金では買えない価値があるのは確かなことであるように思われます。

宗教に見えない宗教 【発達障害クリスチャンのつぶやき】

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腹ぺこ

腹ぺこ

発達障害の当事者。偶然に偶然が重なってプロテスタント教会で洗礼を受ける。東京大学大学院博士課程単位取得退学。クラシック音楽オタク。好きな言葉は「見ないで信じる者は幸いである」。

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