自宅でも職場でも学校でもない「逃げ場」 【発達障害クリスチャンのつぶやき】

私は学生時代、アマチュアオーケストラをやっていました。社会人のオーケストラに入っていたこともあります。自分が社会人になってからは社会人オーケストラに入っていないのですが、あれは典型的な「サードプレイス」でした。皆さん、楽器の練習をするために集まっているように見えますが、実は、自宅でも会社でもないところに行きたかったのだと今はわかります。

最近、東大の物理学科を出た39歳の友人とから、人とのつながりとして「デイケアはかなり使えますよ」と聞きました。また、「東大OB会というのは、60歳とか80歳の人が多いので、われわれでも若いほうで、かわいがってもらえる」ということも教えてくれました。そのほか、さまざまな「サードプレイス」を確保している人が多いことも知りました。ある人はお料理教室、ある人はテニスサークル。病院仲間と交流を続けている「うつ友」もいました。その人は、躁のときに電話をかけまくる傾向にあり、特定の人に電話をかけ続けると嫌われてしまうので、数名の友人に順番に電話をするそうです。確かにそうすると1人当たりの負担は何分の1かで済みます。「電話って、その人の時間を奪いますからね」とその人は言っていました。

教会も「サードプレイス」の意味合いが大きくあります。教会の集会は、サークル活動みたいな役割も果たしているのです。オーケストラが音楽のためだけにあるわけではないのと同様、教会も神様に会うだけの場所ではないです。「家と会社だけ」、あるいは学生さんなら「家と学校だけ」しか行くところがないと、あたかも家と会社(ないし学校)が世界のすべてであると錯覚しがちなものです。ある若い牧師さんさえ「しばしば、この牧師室が世界のすべてであるかのように錯覚する」と言っていました。もし、家と学校が世界のすべてだと錯覚している学生さんが、学校でもダメ、家でもダメとなりますと、逃げ場を失います。「もうダメだ」と思ってしまうことでしょう。

「神は我らの逃れ場、我らの力」(旧約聖書詩編46編2節)と言います。昔から「神」というのは「逃れ場」だったのです。神に逃げていくのです。教会って「説教を聞くところ」「お祈りをするところ」である以上に、「逃げるところ」という意味合いが強くあると思います。礼拝の最中で居眠りしていてもいいではないですか。休みに行っているのですから。かつて、日曜にゴルフで礼拝を欠席するときに「来週はゴルフ礼拝に行きます」というおじさんがいましたが、ゴルフも「サードプレイス」ですから、あながち「ゴルフ礼拝」というのは本質を外しているわけではないとも言えます。教会の人間関係で疲れたら「フォースプレイス」「フィフスプレイス」を作って、どれか一つでもうまくいっているところに逃げればいいと思います。家と学校(あるいは職場)が世界のすべてだと錯覚しないようにしましょう。もっと言えば、この見える世の中を世界のすべてだと錯覚しないように。そのために天国があるようなものですからね!

苦しみから目をそむけてもいい 【発達障害クリスチャンのつぶやき】

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腹ぺこ

腹ぺこ

発達障害の当事者。偶然に偶然が重なってプロテスタント教会で洗礼を受ける。東京大学大学院博士課程単位取得退学。クラシック音楽オタク。好きな言葉は「見ないで信じる者は幸いである」。

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