そのとき、お前たちは、わたしが主であることを知るようになる。
エゼキエル書6章7節(参考箇所同書6章1〜14節)
エゼキエルはエルサレムの神殿祭司でしたが、バビロンに捕囚の民として移され、その地で預言者としての召されました(前592〜570年)。この聖句は、イスラエルの人々の背信の罪を神が審き、その結果亡国の憂き目を見たとの託宣の部分です。
今や国土はネブカドレツァルの攻略によって壊滅状態を呈するに至っている、しかし「理由もなくこの災いを彼らにくだすと告げたのではなかったことを知るようになる」(10節)との神の言葉をエゼキエルは告げます。悲劇的な事態だからこそ、そこには神の御心が働いているというのです。エゼキエルは「そのとき、彼ら(全イスラエル)はわたしが主であることを知るようになる」との神の言葉を取り次ぎます。この言葉は6章から7章にかけて幾度となく繰り返されます。人々は国が荒れ果てた「そのとき」になって、真の主はだれであるかを知るのだと言っているのです。
ルターは「罪とは一切の望みが絶たれた状態であって、どこにも行く道がなく、ただ一つキリストに行く道が残されている状態である」と言います。今まさしく全イスラエルの罪の結果が、真に主であるお方を知るための道備えとなっているのです。