みんな神様のせい 【発達障害クリスチャンのつぶやき】

Photo by Christian Bowen on Unsplash

30年くらい前に東大生だったころの話です。東大の便所の落書きにはいろいろなことが書いてありました。「俺の名前は愛飢え男(あいうえお)」で始まる見事な語呂合わせの「詩」を見たこともあります。インターネットのほとんどなかった当時は、「便所の落書き」が「SNS」だったのです。あまりにおもしろいので、ある雑誌が「東大の便所の落書き」を特集したことがあるほどです。

あるとき「人はなぜ生きるのか」という落書きがありました。皆さん、それに落書きで返事を書いています。「誰かに愛されているからだ」と書いている人もいました。そいつがいかにも東大生らしいのは、そのあとに「したがって誰からも愛されていないやつは死ね」と書いていたことです。さすが、ロジカルですね。このさまざまな返事のなかで最も私の印象に残ったものは、小さく「生まれちゃったから生きるんじゃない」と書いていた返事です。おっしゃる通りだ。

われわれは、生まれる前に「私は生まれたいです」と願書を提出して生まれてきたわけではありません。気がついたら生まれていたのです。そう考えてみると、私は私の存在に責任はないことに気づかされます。私が生きているのは私の責任ではない。私を生まれさせた神様の責任だ。私は生まれてからずっと「人並みにできない」「常識がない」「対人関係に問題がある」というのを「自分のせい」だと思ってきましたが、考えてみると、そもそも生まれてきたことそのものが私のせいではないではないか! そう感じたからこそ、その18歳のときの私は、その「生まれちゃったから生きるんじゃない」とつつましやかに書いてある便所の落書きが印象に残ったのでしょう。

のちに私は偶然に偶然が重なってキリスト教会と出会うことになります。本物の宗教とは「すべては自分のせいではなかった」と悟って、「自分のせい」という重荷をおろす教えのことです。「無責任」とは悪い意味で使われる言葉ですが、まさに自分の存在は自分に責任がない。聖書から引用しますと、神が以下のように言うところがあります。「私が造った。私が担おう。私が背負って、救い出そう」(旧約聖書イザヤ書46章4節)。まさに神が私を造ったのですから、神が責任をもって私を救ってくれるのです。「お前のせいだ!」という言葉は私自身、ずっと言われ続けた言葉であり、またそれに伴って私も人にずいぶん言ってきた言葉だと思います。私の学歴が異様に高いことが私の努力が結実したわけでもないのと同様、私がいま仕事を失って路頭に迷っていることも私の怠慢の結実ではないのです。すべては神のせいです。われわれは無責任です。

無職であることを恥じず、無能であることを恥じず、むしろ助けてもらわないと何もできない自分を誇る。こういうのを世間では「開き直り」「恥知らず」「無責任」と言いますが、そもそもすべては神が造ったのだから責任は神にあるのであって、われわれに責任はないことを悟り「自分のせい」という極端に重い荷物をおろすのが「本物の宗教」であり「人の道」です。いっしょに「無責任」に生きていきませんか?

自立とは依存すること 【発達障害クリスチャンのつぶやき】

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