教員だった時代に、弦楽合奏の生徒を引率して、学校の近所の公民館で、高齢者向けクリスマス会の演奏をしていました。とても楽しく、いいクリスマス会でした。しかし、なにかが足りない気がします。私は気がつきました。「イエスさまがいない!」 クリスマスってキリストの誕生を祝うものなのに、見事にそれだけが抜け落ちたクリスマス会だったのです。
その半年後くらいの初夏、教会で「証(あか)し」をする機会がありました。礼拝後に1時間という時間をもらって、自分の話をする機会があったということです。いろいろなことをしゃべりましたが、ふと原稿にないことをしゃべりました。「教会の最大の魅力は神様に会えるところです。もしも教会が人と人とが会うだけの場所だったら、そこは教会ではなくて公民館ですよ」。この言葉は、聞いていたある牧師さんに気に入られて、のちに礼拝説教でも取り上げられました。ちょっとその教会は、あまりにも人と人とが会っているだけの傾向があり、この言葉は多くの人に「刺さった」ようなのです。しかし、それから7年くらい経ち、いろいろな経験をしました。かくいう私が、まるで教会へ「人に会いに行っている」感じなのです。しかし、この7年くらいで、「教会は人に会えるというそのことだけで価値がある」と思えるようになりました。
人とのつながりの大切さを最も強く感じたのが、4年前くらいの、何回目かのダウンのときです。絶望して実家のふとんで1日中寝ている私は、とてもではないですが見えない神様だけには「依存」できませんでした。スマホを通じて、ひたすら友人に依存し続けました。たしかに「神とのつながり」は大切だけれど、同じくらい「人とのつながり」が大切だと痛感したのです。
そして去年の今ごろ、生きる意味を見失っていたころに私を救ってくれたのは、宗教と関係のない、人生観も合わないあるクラシック音楽マニアとのメールのやりとりでした。それから、「就労移行支援事業所」といわれる福祉の施設とつながって、週に2度、外出する機会を得て、また生きるモチベーションを与えられました。お金の問題ではありません。生きる意欲を失ってしまったら、いくらお金があっても生きられないものです。「たとえ人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか」(新約聖書マタイによる福音書16章26節)。いかに人とのつながりが大切かを思い知らされました。そして、その「人とのつながり」を強力に与えてくれる最適な施設が「教会」だったのです。
教会は公民館「でも」よい。「人とのつながり」が得られるだけで充分に教会の存在意義はあります。宗教が与えてくれるものは「心のよりどころ」だけではなかったのです。「人とのつながり」だったのです。あの公民館でのクリスマス会も、みんなとともにイエスさまはいたではないか。神を大切にするのと同じくらい、隣人を大切にすることを説いている聖書の言葉(同22章34節以下)の意味をかみしめる日々です。