山我哲雄(やまが・てつお)さんと、長谷川修一(はせがわ・しゅういち)さんという、2人の日本の聖書学者がいらっしゃいます。
山我さんのような偉大な先生と親しくしゃべる機会があったのは、同じ教会に所属していたことがあるからです。東京の教会でした。しかし、山我さんは、北星学園大学という札幌にある大学の先生であり、もちろん札幌から東京の教会に通うことは不可能です。ですから、上京した山我さんとおしゃべりする機会などは限られていました。とても朗らかで気安く話しやすい先生だったと思います。
教会では、おもしろ山我エピソードがたくさん語られていました。若いころ、名曲喫茶でバイトをなさっていて、そこでクラシック音楽を覚えたらしいのです。聖餐式(せいさんしき。キリストのからだであるパンとぶどう酒をいただく儀式)の配餐(はいさん。聖餐式でパンを配ること)のときも、山我さんは、まるで喫茶店で飲み物を配るときのようだった、というのは当時の牧師さんの得意なお話でした。クラシック音楽のなかでもとくにマーラーを愛しておられ、アルフォンス・ジルバーマン『グスタフ・マーラー事典』の翻訳もなさっています。
東京の教会の時代、「山我先生って、ときどき学生さんを連れて、イスラエルのほうへ発掘に行くらしいよ」ということを聞いていました。「発掘ってなにが出るのかな?」と思っていましたが、長谷川修一さんの『聖書考古学』を読んで「なるほどこういうことか」と思ったものです。
多くの人が「聖書考古学」という言葉を聞いて思い浮かべるのは、以下のような研究であるようです。すなわち、アララト山に行ってノアの箱舟の一部を見つけて来ようとするような研究です。旧約聖書の創世記8章4節に「第七の月の十七日に、箱舟はアララト山の上にとどまった」と書かれています。つまり、「アララト山でノアの箱舟の一部が見つかった。このように聖書に書いてあることは考古学的にも裏付けられる」という研究ですね。しかし、実際に聖書考古学というのはどういう学問であるかというのは、その長谷川修一さんの本を読むとわかります。
発掘で大きい発見は、聖書そのものの出土です。聖書に原本はありません。すべて写本(写し)です。私たちが手にする聖書は、たくさんの写しを見比べながら、どれが本来の文章であったかを調べるという気の遠くなるような作業を経てつくられているようです。その、重要な古代の写しが見つかることが稀にあります。それでときどき聖書の本文が変わったりします。
これは、『チ。』というマンガで描かれる「天動説、地動説とC教(キリスト教)」との関係の話とも関連し、学問的に真理を追究していくと、ついに宗教を超越するという例です。旧約聖書が、イスラエルの民が書いたイスラエルの歴史であって、無自覚的な自分びいきがあるようなものです。近所の大きな神社に、その神社の歴史が書いてあります。1900年前からあるそうです。しかしそのころ日本は弥生時代であって字はなかったはずですので、どこまで本当だかわかりません。
同様に、モーセの時代にヘブライ語に文字はなかったので、モーセの同時代にモーセ五書が書かれたこともないだろうと考えられます(神様は石の板に十戒を書いているけれど、なんの字で書いたのか)。神道や仏教と違って、新約聖書の時代は、イエスの死後、かなり早い時点でいろいろな手紙や福音書が書かれていますが、それでもあれだけ伝説化しているのです。まして仏典や古事記のようなものが、どれだけ史実を反映しているのかは、はなはだ疑問だろうと思います。やはり学問というものは結論ありきではなく、自分の想定していた結論と違う結論に到達することはよくあるのです。もしかしたら最初の聖書考古学は、ほんとうにアララト山へノアの箱舟を見つけに行くような研究だったかもしれません。こんなに細かく聖書が研究される理由も、おそらく真理の追究が目的だったでしょう。しかし、それは裏切られています。
私自身、「自分の予想と違った」という経験を、何度も味わっています。真理を追究するのが学問であり、「結論ありき」という姿勢は学問とは言えないと思います。