買い物で幸せな気持ちになるのはせいぜい2週間。【聖書からよもやま話166】

主の御名をあがめます。

皆様いかがお過ごしでしょうか。MAROです。
今日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

毎回、新旧約聖書全1189章からランダムに選ばれた章を読んで、僕の心に浮かんだ事柄を、ざっくばらんに話してみようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧訳聖書、  伝道者の書の2章です。それではよろしくどうぞ。

◆伝道者の書 2章10〜11節

自分の目の欲するものは何も拒まず、
心の赴くままに、あらゆることを楽しんだ。・・・
・・・見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

2012年のNHK大河ドラマ『平清盛』を先日すべて観終わったのですが、主人公の清盛が、この世の栄華の頂点にまで登りつめたとき「そこからの眺めはいかがですか」と問われて最終的に「何も見えない」と答えたのが印象的でした。清盛の前に栄華を極めた白河法皇もまた、若い頃の清盛に同じようなことを聞かれて「登ってみればわかる」というような答えをしていました。

旧約聖書に登場するソロモン王も、清盛や白河法皇よりも2000年も前に同じようなことを述べています。目に見える欲しいものはすべて手に入れ、考えうる限りの贅沢や悦楽を味わってみたけれども、それはすべて空しいと。人間が思い浮かべる願望はどれも本当に人間を幸せにしてくれるものではないんです。

僕はちっとも少しもこれっぽっちも栄華を極めていない人間ですから、もちろん清盛やソロモン王ほどの贅沢はしたことがありませんけれども、少しだけその気持ちはわかるような気がします。

僕の去年の買い物で一番大きかったものはリビング用のスピーカーでした。「もっと良い音で音楽を聴いたり映画を観たりできたら、きっと生活が素敵になる!」と思って、カタログを吟味し予算とも相談し、アマゾンさんのタイムセールも活用して希望通り、いや希望以上の良いスピーカーを買いました。でも、それで僕の生活の素敵さ具合が明らかにアップしたのは、せいぜい最初の2週間くらいでした。最初はもちろん「良い音だなー、嬉しいなー、買ってよかったなー」という気持ちで満たされたのですが、しばらくするともうそのスピーカーがある生活が当たり前になってしまって「嬉しいなー」という気持ちは急速に小さくなってしまいました。そして翌月には「大画面のテレビを買おうかしら」なんて、心がスピーカーから離れて、次の「欲望」に向いてしまったのでした。
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ただ救いだったのは、僕はそこでこのソロモン王のことばを思い出して「あぁ、これを買っても嬉しいのは最初の2週間だけだな」と、大画面テレビを買わなかったことです。スピーカーやテレビではなく、もっともっと大きな買い物でも、きっと同じことが言えると思います。高級車や豪邸を買っても、2週間かどうかは分かりませんが、いずれそれが当たり前になって幸せを感じなくなってしまうことでしょう。「あたりまえになってしまう」ことが幸せを減衰させる大きな要因なのかと思います。

では、減衰しない幸せってないのでしょうか。世の中に本当に人を幸せにしてくれるものはないのでしょうか。ソロモン王は物質はもちろん、快楽や名誉や業績まで「空しい」と言っています。快楽や名誉はともかく業績まで空しいと言われてしまったら、人生に求めるべきものは何もないように思えてしまうかもしれません。

物質や快楽や名誉はどれも「時が流れると消え去る」つまり「減衰する」という共通点があります。業績も時が流れると風化したり、後世の新しい業績に塗り替えられてしまったりします。ソロモン王が空しいと言っているものはどれも、その価値が時代や時間に依存しているものです。ですから、もしかして本当に人を幸せにするもの、つまり「空しくない」ものは、時代や時間に依存しないものなのかもしれません。

たとえば聖書の教える「愛」はその価値が時間に依存しません。恋人同士の愛とか夫婦同士の愛とかはもしかして時間と共に消えてしまうこともあるかもしれませんが、聖書の教える「愛」はそれとは違います。そしてその「愛」を教える聖書そのものも時代や時間に依存しない価値を持っています。聖書は2000年以上にもわたってその価値が変わらない稀有な書物です。そしてその聖書を世に与えてくださった神様も、時代や時間に依存しない価値があります。

目に見える欲望が心を満たしてくれるのはせいぜい2週間、それよりも長くずっと心を満たし続けてくれるものが、本当に価値のあるものなのだと思います。クリスチャンにとってそれはもちろん聖書や信仰や愛ですが、人によっては他の何かであるかもしれません。たとえば僕にとって音楽は少なくとも2週間ではなく25年の幸せを与えてくれるものでしたから、20万円で買ったベースも安い買い物だったのかなと思います。しかしそれも決して永遠ではありません。時間と共にいずれ消えます。

こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。
(コリント人への手紙第一 13章13節)

とにかく、消える幸せを求めるのではなく、ながく消えない幸せを求めたいなと思います。

それではまた明日。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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