「自力信仰」のクリスチャン 【発達障害クリスチャンのつぶやき】

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仏教的な言い方になりますが、キリスト教は他力信仰です。すごくおおざっぱですけど。つまり、人間の努力(自力)によって救われるのでなく、神様の愛(他力)によって救われるということです。ところが、そうは信じておられないクリスチャンのかたもいらっしゃるようで、私の出会った「自力信仰」(のほんの一部)を思いきり斬らせていただきます。

「祈りの打率」という言葉を聞いたことがあります。どういう人の祈りが、よく聞かれるか。つまり、どういう人が、「祈りの打率」が高いか。それはつまり、真剣に祈り、毎週欠かさず日曜日は家族そろって教会へ通う人である。しかし、これって典型的に自力信仰じゃないですか。自分の努力で勝ち取る救い。悪いですが、その発想は違うと思います。少なくとも私にはついていけません。その発想で、私は救われない。お前の祈りがなぜ聞かれないのか、教えてやろうか? それはだな、お前が真剣に祈ってないからだよ! 祈りが足りない! だからお前は「祈りの打率」が低いんだ! もっと真剣に祈れ! オレのように毎週欠かさず家族そろって教会へ通え! ……こういう信仰にはついていけません。

「自力信仰」を追求していくと、「良い子は天国に行って永遠の命、悪い子は地獄に落ちて永遠の罰」というところへ行きつきます。善行を積むと天国へ行ける論ですね。悪行を積むと地獄に落ちる論というか。でも、少なくともこれだと私は「悪い子」なので、地獄に落ちちゃうんです。私、真剣に祈らないし、この間の日曜日も家で寝ていたし、人並みにできるべきことがほとんどできないし、空気も読めないし、常にろくでもないことを考えていて、職場でもダメ、家庭に帰ってもダメ、ホントにろくでなしのダメ人間なんです。地獄に落ちてしまう! その発想では!

私の出会ったキリスト教は、そうじゃなかったから、救われて洗礼を受けました。洗礼を受けてからも、さんざんな人生を歩んできて、常にダメ人間なんですけど、どうにかイエス様が共に歩んでくださって、神様の愛と恵みで今も歩んでいます。私もわかるんですよ、同じキリストを信じて歩む者同士、けんかはしたくないなあ、と。でも、それでも、例えば「祈りの打率」論を出してくる人との間には、いまだに大きな溝があります。

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腹ぺこ

腹ぺこ

発達障害の当事者。偶然に偶然が重なってプロテスタント教会で洗礼を受ける。東京大学大学院博士課程単位取得退学。クラシック音楽オタク。好きな言葉は「見ないで信じる者は幸いである」。

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