そこへ、アレクサンドロとルフィスの父シモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。
マルコ15章21節(参考聖書箇所同書15章21-23節)
ピラトの官邸から十字架の刑が執行されるゴルゴタの丘に至る道中での出来事です。たまたまそこへ通りかかった北アフリカのキレネの人シモンは、ローマの兵士からイエスに代わって十字架を担ぐように強いられ、イエスに従います。
たまたま通りかかっただけであり、無理やりに背負わされた十字架の重みを肩に食い込ませながらイエスに従うシモンに、主の弟子としてありようを見るのです。けっして予定して、そこに居合わせたわけでもない、名乗り出て十字架を担いだのでもありません。まことに運命的といえる出来事が起ったのです。
にもかかわらず彼が背負っているのはキリスト御自身の十字架であり、キリストに従って歩いている己がいるのです。そこには、主が「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(ルカ十四章二十七節)と言われるように弟子としての姿があります。偶然のいたずらがそうさせたというのでしょうか。むしろ深い神の御心があるというべきでしょう。わたしたちが主の弟子となるとき、シモンと同じ神の摂理を感じるのではありませんか。